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天の川がこんなに美しいとは 20年ちかくほんとうの星空を知らなかった


はじめに

 政令都市の街なかに住む天文少年だった。サラリーマンの家に生まれ、社宅アパートの3階ベランダが観測地点。

工場地帯は目と鼻の先。歩いても行けるほど。煌々と夜どおしコンビナートの明かりがともっている。これらの反射により夜空は明るく2等星を見るのがやっと。シャッターを押しっぱなしにしてフィルムに撮影してもバックは暗くなくあかるくぼんやりしている。

そんな世界で見上げつづけた夜空。本当の夜の漆黒の暗さを知ったのはさらに10年近くあとのことだった。


工場地帯の空

 こどものころからいつも空をながめていた。昼でも夜でも。時間があれば空をながめるのが好きだった。ときにはがけをダンボールでさんざんすべり下りてつかれたあと草の上に寝ころんで、わたがしのような積雲のながれゆくさまをぼんやりながめるのが好きだった。

三角ベースをやったあと中学校そばの鉄塔のある丘にのぼり、ゆったり草の上に腰をおろした。ニュータウンの100棟をこえるアパートのたちならぶ街を視野の下のほうに入れつつ、空を仰いで汗ばんだシャツに涼やかな風がとおりすぎる感触を友人たちとあじわっていた。

どんなときも空はいっしょで視野のかたすみにある感じがしていた。太陽がしずみ暮れてそろばん塾がおわり、ほっとしたきもちで夜空をながめるのはよかった。ああ、きょうもこれで開放されたという安堵のきもちでいっぱいだった。


夜空をながめる

 いちばん星の金星やシリウスならばなんなくみつかる。でも北極星となると夏ならばようやく「全員集合」のはじまる時間でないと見つけられない。

とくに夜空に不慣れな友人たちにそれをつたえるのは至難のわざだった。「あれっ、こっちかなあ。」とか「いや、そっちだよ。」とけっきょくどうでもいいやとなってしまう。

そんなふうに数のすくない星に親しむほどになれない友人たちを横目にひとり、ほんとうに北極星のまわりに星々たちがぐるぐるひとめぐりしているのかたしかめてみたいとつねづね思っていた。

本に書いてあるような「降ってきそうなぐらいの星空」というものをどこか遠くにいってながめてみたいと思っていた。

しかしながめつづけていても、不夜城といえる二次産業でささえられている街の夜空が「漆黒のやみ」と「降るほどの星々」をかたちづくることはそれ以降もなかった。

やむなく高校進学の機会に購入してもらえた望遠鏡で月のクレーターを撮影したり、木星のまわりをとびまわる衛星のかずかずをながめたり、アメリカの探査機のボイジャーの木星探査などの活躍を新聞で読んでわくわくしたりしていた。


ほんとうのすがた

 大学進学で地元を離れひとり暮らしがはじまった。とうぜん夜でも自己責任でだれにもかまわず行動できる。休みの日にはバスなどをつかい遠出して夜の暗い地を訪れていた。そこで「ほんものの夜の暗さ」を体験した。

暑い快晴の日だった。夕方すぎるとようやく涼しくなり、急激に周囲は暗くなった。なんと自分の手元すら見えない。持っている懐中電灯がたよりで、持参の地図を照らしていまの位置をたしかめつつ移動する。

昼間に一度訪れていたことがさいわいし、なんとか距離感だけでたどりつけた。わたし自身が夜にとけこみ意識だけがそこにある感じ。そして空を見上げた。


こわいほどの…

 息を飲んだ。いまでも覚えている。「こわい、帰ろう。」と感じたのが第一。それほどのインパクトのある夜空だった。空いっぱいにひろがる星々がわたしをながめてこちらにむかって輝きながら向かってくるエネルギーを感じた。

腰がひけていたがしばらく耐えよう、がんばろうとみずからを励ましつつそこでじっと四方をながめていった。ふと背面をむいたとたん、もう一度驚かされることになった。

そこには空いちめんにひろがる夏の天の川。わたしは快晴のよるにいきなり雲が生じたのかとすら思った。風のない晩にそれはさずがにおかしいともう一度見わたす。まちがいない。


おわりに

 写真集でおぼえのあるすがた。そう、牽牛星(アルタイル)と織女星(ベガ)のあいだに広がる天の川のすがた。これが天の川か…。ようやく出逢えた。周囲の星々とともに「金銀砂子…」とたなばたの歌にあるとおりだと思った。

ほんものの天の川がそこにあった。実物の迫力をいきなり満天の星々のなかに見てしまった。しばらく文字どおり息をのんでみつめた。その姿はいまだに目に焼きつき鮮烈な印象。

宇宙に興味をもち、この歳になるまでその興味をうしなわないでこれたのもこの日の体験があったからこそ。


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