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風呂上がりの耳掃除と売上の百円玉を数える楽しみとはよく似ている


はじめに

 世の中には重要でなくても心の安寧を保てる行為がある。ルーティーンなんかもそう。数えあげたらけっこうありそう。もしかしたらほとんどそうだったり。人間観察のおもしろいところ。

くだらないかもしれないが、わたしの場合には何だろうと考えたので記してみた。


これまでの身繕い

 家で以前犬を飼っていた。他人様の家におじゃましたときにその家で飼っているワンちゃんを観察していると、犬というものは品種は違えども基本的なしぐさなどはよく似ているなといつも思っていた。

猫ほどではないが、ペロペロなめて毛づくろいをする、前足を放り出して伸ばし背を反らして伸びをする、後ろ足でからだを掻く…。

これらは犬にとっては生きる上できっとだいじな行為だろう。外で暮らしてきた毛に覆われた生き物。きっと寄生虫や汚れをとりのぞいたり、いつでも危険を避けるために逃げるなどの「構え」のためにからだを保ったりする上で必須そうだ。

どの犬もその一連の行動は似ている。犬の骨格からその動きは制限されるだろうが、あまりにもそのうごきに共通性が見られる。それだけ本能として連綿と伝わってきた反射的な動きだろう。そして犬にとってこのうちどれぐらいがルーティーンの行為だろう。


さて、ヒトの習慣のなかで

 ヒトに目を向けよう。もちろん歯をみがく、風呂に入るなどは健康や生活を保つ上で欠かせない行為。それにともないさまざま付随する行動がある。

耳掃除はそのひとつ。綿棒を使うようになってひと月ほどだろうか。これはさすがに気持ちよい。それに対して風呂上がりの耳かきは危険すぎるので避けてきた。外耳は風呂のなかでふやけて傷つきやすくなっている。そこへかたい耳かきをあててはとたんに傷めてしまう。

そこで頭や顔を洗う際に耳の穴に入る水をそれまでは放っておいて乾かしていた。ところが家に綿棒が備わり、しかも容器ごとだれも使っていないと最近になって気づいた。これは使わずにはおれない。使ってみると具合がいい。風呂では届かないごくそばまできれいにぬぐえてきもちがいい。

耳の穴の掃除は病みつきになりやすいとどこかで読んだ。やりすぎて外耳炎を起こし病院に通うなんてことも。さすがにそれは避けたいと、これまではいじらなかった。放っておいて乾かした何十年だった。

それが綿棒、綿棒と探し、いつしか「風呂あがりに綿棒」が定着。はたしてヒトの生息にとり、この作業はどれだけの意味があるのだろうか。


べつの行動

 話が変わり、つくった野菜を地元の無人販売所で売っていた。文字どおり無人なので店員はおらず、おつりを渡せずどれも100円。値札は共通でまとめて大きく書いてある。

顧客はたいてい100円玉を用意して買いに来られる。たまに10円が硬貨受けにじゃらじゃら入っている。ところが10円だとどういうわけか数が合わないことがよくある。

こちらは性善説にたち、いずれかが数えまちがえたのだろうと勝手に解釈しつつ、無人なので確認しようもなくしかたないで済ませてしまう。

ところが100円玉はそうはいかない。100円はあるとなしでは大違い。野菜の数=100円玉の大原則のはず。

したがって日々、品出しした野菜の数の把握と、毎日夕方に売上を回収する際にかならず「100円玉数え」の作業をおこなう。100円玉どうしのじゃらじゃら音と10円玉のかち合う音とではここちよさがちがう。

その音の快さの度合いは悲しい人間のサガで、やはり収益の大きさに比例する。百円玉の数が売れた野菜の数とぴったり合うとやはりこちらもここちよい。

こうしてわたしのアタマに売上の100円玉をかぞえる行為はここちよいと「すりこみ」がなされ、いつしかわたしは売上回収の自転車こぎが軽やかに感じられるようになった。

つまり一足飛びにいつでも100円玉を数える行為で出る音がここちよいに置き換わってしまったのだ。


おわりに

 結論を言おう。「風呂上がりの耳掃除と貯まった百円玉を数える楽しみとはよく似ている」ということ。いずれもここちよさがこれらの行動の源泉。何も人間存在に重要なわけではない(収益という生活の糧を得られる点ではだいじだが)。

何がいいたいかというと、人間の生活にともなう行動のうち、必須ではないが心の平衡や安寧を保ったり、明日への活力を得たりする上では役立つ行為が存在する。しがないわたしの場合にはそれがこのふたつだった。


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