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イギリスの画家コンスタブルのえがく風景のなかに湧き起こる追憶の想い


はじめに

 この画家にはじめて接したのは学生のころ。地方の図書館にありがちなほのかなふるい本から発する空気のなかで、ページを開いた。

ロマン主義の絵にありがちなどこかとりつくろったようすはかんじられず、ありのままというか素朴。よそよそしさをかんじない。そこにひかれてしばらく彼の絵をさがした時期があった。

きょうはそんな話。

絵をえがく一方で

 大学の美術部のとびらをたたいて油絵に接した。もちろんいちばん安価な画材一式のはいったセット品をなけなしのてもちのなかからひねりだした。

学生街の画材店の主人はそれを心得ていて、いつもわたしのようなしょぼくれた学生にはいろいろとサービスしてくれたり、「ちゃんと食べてるか。」と声をかけてくれたり。

大きなチューブの絵の具を補充すればじゅうぶん展示にかなう100号程度の絵を4畳半一間のアパートでえがけた。

えがくばかりでなくさまざまな画家の絵に接した。地方といえどもキャンパスは街なかなので図書館が点在する。ふるいけれども画集が充実していたそのうちのひとつにたびたび足を運ぶ。もちろん美術展にも機会あるごとにおとずれていた。ふりかえるとこれほど美術に時間を割いていたのはおどろき。

そのなかであらたな画家をみつける。ロマン派の絵はどちらかというとわたしにはどこかよそ行き感がある。あまりになじみのない貴族や王族の好みそうな画風。その流行のあとの19世紀に生きた画家がコンスタブル。イギリスの画家。あきらかにロマン派とは一線を画す絵だと思う。

芸術の中心地のフランスとはちがい、イギリスは隣国でありながら当時の絵のせかいではどこか辺境の感じがわたしのなかにはあった。しかしよく考えるとターナー(彼と年齢はひとつちがい!)など時代を代表する画家のひとりにちがいはない。たぶん知らないだけで豊富にいたはず。

目に留まる

 彼のえがく対象はあきらかにヒトではなく風景。わたしも当時はどちらかというと風景や樹木をとことん描いてみたいと思いつづけていた。

彼のようにありのままの風景のすばらしさを表現できないかと。彼はこの自然や樹木のある風景のひろがり、起伏の形状、豊富な色彩などに興味をしめし、とことん追求したのだろう。画集をめくるとつぎつぎにそうした場面が登場する。

人物が配置されたとしても点景や添景。どこか水墨画の風景のなかの人物のあつかいのよう。わたしも自由にえがいていいといわれるとヒトよりも当時は風景や樹木に向かいがち。

さて話をふたたび美術部へ。部室にはいるとそんな思いとはおかまいなしに先輩方は人物や抽象画に興味をもっていそう。風景画はどちらかというとわき役っぽい。この美術部のよいところは自由なところ。とくになにかにしばられるわけではない、束縛されない雰囲気がそこにはあった。部活といえば運動部で過ごした経験しかないわたしにはおどろきのせかい。

年の差などあまり関係なく自由に接してもらえていた。つまり美術であればなにを描いても、なにをやってもかまわないという場だった。

お披露目会

 毎週の部会のあとだったと思う。とりくみつつある絵を皆のまえに示して批評してもらえる機会がたびたびあった。

ひとりずつ先輩後輩わけへだてなく、その場へ提示できる。部員たちを前にして「こんなのえがきました。」とさらけだす。すると遠慮なく批評の声がとどく。

だれでも自由に発言できて、その意見や質問にこたえる。けっこう活発な議論になることも。もちろんなかにはもっとこうしたらとか、ここはいいけどそちらが…とかさまざまアドバイスがもらえた。やりとりはおもしろいし、ヒトの意見にはなるほどそうかと一理あるし勉強になる。

わたしの番がきた。まだやっと購入してまもない油絵の具で色をのせはじめたばかりの生乾きの風景画をそこへもちこんだ。わたしの入部以来の初お披露目。絵をイーゼルにたてかけると、10人ほどの視線がひしめく部室がし~んとなった。ーありゃ、やっぱりお気に召さなかったかー。まずあたまのなかにそうことばがうかんだ。ところがある先輩が口をひらいた。

画家たちも

 「うわ~、これからがたのしみ。桜はむずかしいよねえ。バックをもっと落としたら花が映えるんじゃない?」そういってもらえた。もうひとりから「ひさしぶり風景画見たなあ、やっぱりいいなあ、おれも描こう。もっとかけよ。」

10人それぞれからことばをかけてもらえた。やっぱりはげまされる。水彩とはちがい油絵の作法はさまざまちがう。そのなかで試行錯誤がつづいた。なにもかもがあたらしくまなぶことが多い。

わたしの当時の師のひとりがコンスタブルだったのかも。風景を主体にしてもいいんだよとそれらの絵からとどくメッセージはやさしい。前面に主張するのではなく、絵の世界が周囲になじみ一体化するように感じる。

どこでもなじんでしまう。言ってみれば壁にあらたな窓ができた感触。そこをつうじてそとの世界が広がる。ありふれてどこにでもありそうだが普遍的でありながらうつくしい。

そんな主張しない地味にもみえるコンスタブル。先駆者のひとりだし、この国を代表する画家でもある。風景を対象にする絵の世界を追求しひろげた人物のひとりにちがいない。

おわりに

 ながくなってしまった。こののちに多くの風景画家が登場してくる。そして印象派へとつらなっていく。絵にまばゆいばかりのひかりを感じるようになる。

やっぱり彼の絵はいま見ても飽きないし、いつまでもながめていたい。そんな絵を描ける彼のせかいにいまもひかれる。


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