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研究の手がかり:あたらしい良質なテーマは身についたごくそばにころがっている


はじめに

 よくヒトから言われるのが、「よくあたらしい研究テーマを思いつきますね。」だった。そう言われてはたしてそうかなあと思う。ほとんどがガラクタにすぎない。100にひとつもまともなものはない。でもなかにはちょっとだけたしかめてみようかと興味本位でとりかかることもある。すると…。

きょうはそんな話。

まわりにヒントが

 どうも雑学のさまつなことへの興味がつきない。新聞や雑誌などならばコラムとかトピックのところが好き。もはや新聞やテレビに接しなくなったが、それでもなにやかやと雑多な情報を耳にする。そこではこまったなあ~とかどうにかならないかという声が聞こえてくる。

これがいちばんの手がかりであり需要がまちがいなくあるところ。それはなにも生命科学や物理学などの深遠なところばかりでない。むしろ身近なこどもたちが素朴にふしぎだなと思ったり、おとなたちが何とかならないかなというものでいい。

ほぼかならずそこにはまだ学者や専門家がまともに答えられない部分が隠れがちだったり、あきらかに改良の余地があるのにそれまで放っままだったり。そこをなんとか糸口をみつけて探り出す。

満足ばかりだと

 なにもかも手に入れて不満のない生活をおくるばかりではチャンスをみすみす逃しかねない。わたしのようなニンゲンにとり満足にひたるくらしは不幸でしかない。

貧相で不満をあちらこちらに感じられるぐらいがちょうどいい。それでようやく研究のタネが見えてくる。なかからおもむろにひとつをとりだし、しゃしゃり出て関われないかひとまず考える。たいていあれとそれがあればなんとかならないかとふたつばかりを組み合わせればどうにかなる場合がある。

お読みの方は何を言っているのかよくわからないかもしれない。つまりは既存のものの組み合わせでどうにかなるかもしれないというわけ。

特別なことでない

 ものごとの多くはたいていいつかはだれかが気づいて解決していく。そのタイミングがすこし早いか遅いかのちがいなだけ。たまにノーベル賞などになるテーマはそのヒトがもっているそれなりの専門性にくわえてセレンディピティ がすくなからず介在する。

なにもそんな高邁さは必要としない。なにげないくらしのなかの疑問や不便でいい。それが意外や意外いまだかつてだれも思いつきもしなかったことがらがけっこう潜んでいてむしろこちらがおどろくぐらい。

おわりに

 研究テーマは「思いつく」わけではなく、いつのまにか「たどりつく」といったほうがいいかもしれないし、そのほうがしっくりくる。テーマにたどりつくのは上にあげたなにも頭に力をこめてしぼりだすように考えに至るものでないと思う。

ありのまま土のなかから芽が出るようにさりげなく顔を出す感じ。そこから先へおもむろにさりげなく進んでいく。どこにも力むところがないとすんなりクリアできて成果の花が咲く。わりとそういうもの。

無理がないし負担に感じない。むしろふだんのままにいるとおのずとそれなりに出てくるもの。ただし芽が出るところを見逃してしまうと時期を逸することになりがち。それなりに自分なりのレーダーでサーチしつづけることもだいじかもしれない。


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