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食べものとそれ以外の部分の区別がここ十数年で代わりつつあると考えた


はじめに

 日ごろ口にいれる食品。一時期は自らの手でつくっていた。そしていまはその多くを買っている。買うのと自らつくるのでは正直いうとあつかいや見方にちがいがあった。たとえると運転者と歩行者ほどの立場のちがい。それが変わりつつある。

きょうはそんな話。

食べものをつくる

 やさいや果物を6年あまりつくっていた。つくりそだてるあいだにいろいろなことがある。途中で枯れたり、山からおりてくる動物たちや鳥たちから見るも無惨なすがたにされてしまったり。これとて向こうは生きるのに必死。心づもりのないわたしとちがい、相手は明日の食べものすら知れない。覚悟のほどに雲泥の差がある。

それでも荒らされれば憤慨する。平穏でいられるようにさまざまない知恵をしぼり、事前に対策をたてる。あまり気分に浮き沈みを生じさせずにたんたんとはたらきたい。前職はそれで耐えきれなかったのだから。せめてひとりでやっているのだからそれぐらいは願いどおりにさせてほしい。

横道に逸れるがそれに関連してふと気づいた。労働への対価って結局、こうした平常で済まないものごとへの覚悟、ストレス、苦労などの負荷へ支払われていると。その道のプロ・ベテランとはみずからさまざまなくふうや経験で上に羅列したものたちを軽減しつつこなしていく。

商品への接し方

 昨今の状況はそれまでの生活をつづけさせてはくれなかった。一見すると関係なさそうに思えるがそうでもない。やさいを体裁をととのえ販売所に持ち込み、じぶんでならべていかねばならない。

その場所はいずれも混雑しかかえるリスクが大きすぎた。それを回避するためできたやさいの通信販売などもおこなったが思うように運営側と歩調が合わずあえなくやさいづくりから撤退。ほしい方はいらっしゃるのだがなんともくやしい。

その頃のやさいづくりをふりかえると、できたやさいやくだものへの接し方が明確にちがう。消費者に買っていただく商品は別格。店に出すまでにじつにねんいりに手をかける。選別して商品にならないものはとことんはねて手もとにのこし自家消費。土のついた状態から商品に「仕上げる」段階でたくさんの外葉や廃棄する部分をとりのぞく。

商品になるまで

 慣れると一連の作業を雨の日も手際よくこなせるように。そのあと水洗いするかきれいに拭く。おちついたら袋詰やトマトケースなど専用の容器に慎重にならべる。これらのパッケージングは運送時の保持の役割も担う。封やふたをしてそこへ商品ラベルとともに商品名。生産者・価格などのはいったシールをつける。そしてトレイに詰め込み、車で運搬。

やさいづくりそれ自体よりもはたけで収穫して以降のこうした作業の方に手間ひまがかかってしまう。全体を10とすると、畑の準備から生育と収穫前までは2、収穫1、そののちの店にならべるまでが7かもしれない。

買う立場で

 それがやさいづくりをやめて、街中に住みはじめてそれらは「つくるもの」から「買うもの」へと変わった。店では基本的にならべられた商品にふれない。えらんで買いものトレイに入れる1回だけ手にとる。商品は触れるたびに傷んでしまう。それをわかっているから収穫から袋詰やパックづめ時まで必要最小限しか触れない。買うときまでその習慣がでてしまう。

とくにくだものなどはいずれもそう。

おわりに

 買う立場になり隅々まで使うようになった。おそらく収穫時にはたべなかっただろうなという外葉や皮まで食べてしまう。やはり「買う」となると外葉ですら価格の一部にちがいない。お金をはらいあっさり処分するのはやはり惜しいし、食べられるにちがいない。

あきらかにつくっていたころと心もちがちがう。ただし、店にならべられた商品のむこうに生産者が確実にいらっしゃることの認識はやさいをつくった経験でより明確になった。ならべられた野菜やくだものがなにかいとおしい存在。

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