ネットで研究論文検索するときの、地に足のつかないもどかしさ
はじめに
日々のしごとでさかんに論文や資料を検索する。この作業、以前からどうも違和感がある。キーボードに向かいながら感じる不安なきもちをしるしておく。
論文しらべ
兼業で生命科学を研究している。テーマごとに思い至った考えや実験で得た事象が既知のものでないかどうか調べている。これまでにだれもやっていない内容でないとオリジナルの研究として認められないし、学術論文にはできない。
たいていの研究は思いついたら実験でくりかえしたしかめて、他人が追試できる状況になったらまとめて論文にする。その作業はふしぎなことに地球上のべつべつの場所でうまれ、ほぼどうじに進行するらしい。おたがい知らないままでおこなわれ、なぜかほぼ同時に発表となりがち。それでがっかりしたり、ほっとしたり。
したがって論文の発表のあとになってがっかりしたくないので、日々せっせと他者のあらたな論文を調べてまわる。それで万人が気づける状況ならばむしろあきらめて、ほかに興味をうつす。ムリな競争はしない。
あきらめのよさも…
あっさり転換する理由は資金が潤沢でないから。いつまでも未練がましく追いかけると、それに使うぶんがむだになりかねない。それだけは避けたいしほかに活かせるならばまわしたい。
したがってむかしはあっちの図書館、こっちの書庫と「足」を使ってさがしていた。足しげく通って対象の分野の情報の厚み、幅や奥行きをつかんでいた。そうして自分自身の研究の意味づけや立ち位置を感じとっていた。
これで足りないときは学会に出席して確認したり納得したり。学会発表のあとに論文でまとめて世に出ることが常だから、論文より先に知れる。
しっくりこない
でもいまはちがう。つくえについていすに腰かけたままで、論文さがしができてしまう。学会すら昨今の事情もあってリモート開催が主になった。したがって危惧する状況はさらに助長されつつあると思う。
論文さがしの作業はたいてい2,3のキーワードを打ち込むだけでことたりてしまうらしい。「らしい」と書くと、やっている人間がそう表現するのはなんだか変だが 確証がないからそう記すしかない。
それになんかしっくりしないし、足をはこんで集めていたひとむかしまえならあったはずの「さがす」作業をひととおりやった充足感というか、とくに探していた論文が入手できたときのほっとしたきもちまでネット検索では至れないでいる。ネットで検索できるようになった四半世紀まえからつねづね感じている。
もちろん足をつかってさがしてできることは限られおり、むしろ不十分だったにちがいない。それでも気持ちがちがう。できることはやった、できる範囲ではこうだったと言えた。
浮遊感
いまの状況をたとえると宙に浮いたままでボールを蹴る感じにちかい。どうもしっかり地にあしをつけてふんばり蹴れた感触がない。そんなふう。
この感触、いつも気になっている。「全体像」が見えないなかでつかみとろうとするとこうなってしまうのかな。座標軸がはっきりしないというか、位置があやふやなのかもしれない。
話はとぶが紙の辞書ならば、調べながら言葉ってこんなにたくさんあるのかとか、同音異義語がこんなにあるならば電話(電話使わないか)で話すときには注意が必要だなとか、本すじとはちがう思考を加味しながらも、無意識のうちに本すじの言葉の位置づけができている。
うん、たしかにそんな感じ。ところが電子辞書だと出てきた言葉のみ意味がとれる。たしかに便利だが、ただそれだけ。ほかのおまけがついてこない。これは寂しいし、なにかしら疎外感というか虚無感を感じる。
不安な感じのままで
棚の上のものを探すときにたとえる。足をしっかり踏み台にのせてうごかないのをたしかめてから、棚の上にある箱をつま先立ちになりながら注意しつつそっとバンザイしながらとりあげるよう。
それがないと「やった、とれた」というきもちになれない。それがないままだととれたありがたさがわからないし、とりだし方すら身につかない。ネットが使えない、電気がないの状況だと果たしてほしい情報を見つける作業はできるものだろうか。すでにほしい情報にたどりつくことはできずじまいかもしれない。
おわりに
いまや論文がアクセプトされる前に公開する場さえある。世の中はさらにネットに依存し、これなしでは成立しない。
こんな一抹のふわふわした浮遊感をもちつつ、日々PCの前でせっせと論文や資料をさがしている。ほかに手段がなくなりつつあるから。
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