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ほぼあらたな資金を要しない研究だってあるにはある


はじめに

 このクニのお役所は大学に実質的な運営費なしで研究成果や論文などを発表せよとの姿勢。米国のように大学への寄付の容易さやスポンサーの得やすさを整備できていないなかでそれをやってしまった。独立法人とはいえ足かせが多く、事業や資金運用の自由度がないにひとしい。

費用が必要ならば指定の競争的な研究課題に応募して参画すれば資金を提供するという。これでは自由に考えをめぐらし、気ままに探求することはなかなかできないだろう。

きょうはそんな話。

いびつなかたち

 どこか尋常でない。この20年あまりの国立大学の独法化のたどったようすを十数年なかのヒトで、いまは外のわたしからみると、どうも表面的に先進国のやりかたをまねただけでは。

自由で独自のアイデアにもとづいたやりたい研究資金を申請してもなかなか「当たらない」。現役の研究者のみなさんのご苦労がしのばれる。いまのわたしの立場はあくまでもそんな雑務に追われる先生方をサポートする役まわりであり、しかも自由に研究テーマを追求してかまわないと言われてそのとおりにしている。

もちろん少なからず資金提供を受けていてもそんな状況。つねに逼迫。クニにはもう頼る気はない。そこでここ2年ほどはまったくあらたな研究資金なしでもできるテーマを実行中。
 

あてるとすれば

 なんと息をする場所代すら支払わないとならないらしい。研究室の光熱水にいたるまですずめのなみだほどの校費から差っ引かれ消えていく。もともとクニからあてがわれる校費が毎年減るうえにインフレ。なにもかも値上がりし、家計とおなじくどこかしら節約しないとならない。

維持するだけでもかなりの額がいる。あまたいる外部理事など実績にあわせて年俸制で給与をきめるなどすればよさそうなものだがそうはならない。

かわいたタオル

 しわ寄せは末端の各研究室にむかい応分に負担する。それがどういうわけか虎の子の校費が年々減らされ、現在では以前の1,2か月分にも満たなくなったという。休日も時間を割き科研費のほかに30や40となにかと制限つきの民間助成金に応募して幸運にも外部資金を得てもここから何割か「間接経費」として大学にめしあげられる。

大学にも言い分はあるだろうしそれもいたし方ない面はある。外部資金のあてのない、あるいはおぼつかない研究室は身銭をきるしかない。

給与から

 以前から文系の研究者が給与のなかから研究用の文献や本を買っているという話はよく聞いていた。もちろん理系の実験を要する分野の研究者だったわたしでも一部そうしていた。

研究につかうPCなどは自腹だった。何にでも使える汎用機器のPCは資金を得ても買えない規則の助成金が多かった。さらに大学院生の学会参加のための旅費の一部などもあてがないので身銭をきっていた。

家族には申し訳ないが、独自の研究をやりつづけるには当時の給与の半分は「必要経費」として持っていかれても仕方ない、そのあいだに実績をあげるしかないと思いつづけていたし、なんとか外部資金を大学で指折りなほど得ていた。そのあいだにからだのほうが悲鳴をあげてしまったが。

余分に使わない

 アメリカなどは実力主義が徹底し、予算をとってこれない研究者は居場所すらない境遇になる。それとくらべるとまだまだ生ぬるいのかもしれない。自分自身あるいはサポートしてくれる博士研究者(ポスドク)の給与すらそうして得た研究費から支払われるそうだ(例:「生物と無生物のあいだ」福岡伸一 講談社現代新書)。金をとってこれる研究者こそ大学は欲しがる。

ひるがえってわがクニ。たしかにこのクニの競争的資金の一部はそうなりつつあるが、まずそんな予算はあてにならない。どこかのリーダー格の傘下にどっぷり浸からないとその一部にすらありつけない。さまざまな下働きもこなさないとならない。

一匹オオカミのごとく地道にコツコツほそぼそとつづけていきたい希望をかなえるのはなかなかむずかしい。どうしてこうなってしまったのか。

こんくらべ

 こうなると知恵くらべ。ないならないでこれまであるものだけ活用し、ガラクタでも寄せ集めて自己資金を投入して(この分は自宅を研究室にして)できることをしよう。それは禁止されているわけではない。

もしくはこんな縛りが多いなかで活動しにくければ外部の(たとえばわたしのような)ニンゲンをもっと活用してはどうだろう。ボランティアでも研究したい、研究技術や経験豊富な人材は地方でもけっこういるもの。予算面では研究者にとり大学はすでに足かせにひとしくはないか。

もはやひん曲がった独法化のもとで、なにも大学でやらなくても外部で研究所を設立したほうが身軽で資金運用の自由度もありしばりなく効率よくやれそう。それには核となる稼ぎの柱をもたねば。わたしが転業後につづけられた個人事業を活かそうか。

なにしろなにもないにひとしいので、ボランティア以上に自己資金もそこにつぎこんでいるぐらいのサポートをしている。

おわりに

 研究に難易度・独自性の尺度があるとすればこうかな。

 プロジェクト研究 < 助成金研究 << 「ガラクタ」研究

それぞれの研究者には独自の研究をやっている自負やプライドがある(はず)。プロジェクト研究すら何十枚もの申請書書きに貴重な時間を取られて、結果的に不採択でやらせてもらえないなんてナンセンスだし、消費した時間をかんがえると芽をつむことになりはしないか。

研究者の熱心さを超える労力を要求し、その結果「当たらない」なんて。わずかでも当たる「抽選会」に実質的に機会すら与えてもらえていないかもしれない。

いやいやまだまだくふうが足りていないかも。クニの予算はかぎられているのはよくわかる。この先の見えないクニで「研究予算をふやせ」はいわないつもり。ただし申請の不公平だけはやめてほしい。どう考えてもかたよりすぎではないか。

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