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快晴の日をもったいないと思う気持ちをプラス思考に変えられると気づいたこと


はじめに

 このところ何度か澄みきった青空をあおぐ日がつづいていた。こういうときにかぎって室内での仕事。仕事休みの週末にはなぜかぐずついた天気になりがち。

そのめぐりあわせを恨んでもしかたないが快晴の日を惜しいな、もったいないなと満たされない気持ちが湧く。ところがこれまでのいくつかの経験から見方が変わってきた。


空をあおぐと…

 いつからか家を出るときに空をあおぐ。基本的に「家を出る≒車を運転する」のでしごと先での天候を何気なく気にしておこなう。

ところが家といちばんはなれた職場まで片道で30kmと離れている。出発どきの真上の空が晴れていても、到着場所では雨が降っていたなんてよくありがち。

それに気づいてから車にはいつも傘を用意する習慣が身についた。レーダーの雲画像では、雨雲の位置は移りよほどの長雨でないとそう長く同じエリアで降るわけではないようだ。

雨が降っている先には晴れがある。


いつも損な役まわりか

 これはほかにもあてはまりそう。そう、学校の教室でのしごとの配分。なにかいつも損で面倒な役ばかりと思うとグチも出がち。でもよく考えてみるとしごとの多くは持ちまわりのはず。いつかはまわってくる。

それならばと、めんどうな役を早めに済ませたほうが得とばかりに、じゃあわたしがやるといって引き受けるとあとが楽なものばかり。先憂後楽。これってけっこうしたたかな生き方かもしれない。

めんどうなことはあとになればなるほど「めんどうさ」をつみかさねてさらにやっかいさの度合が増す気がする。トイレ掃除なんかまさにそう。それならば面倒になる前にさっさと済ませるほうがいい。そう思えると、もともとの面倒さなんてとっくに消えている、と思う。


遠回りして信号を渡る

 ほかにもありそう。車がひっきりなし行き交う通りの向こう側の店に行きたい。でも車の切れめがないしそのまま渡るのはけっこうあぶない。そういうときには左右をきょろきょろして信号のある場所をさがす。

そこまで歩き信号を渡り、また道をもどる。けっきょくそうしたほうが早いし、こわごわ車を気にしてルールを破りながら渡るリスクを追わずとも、多少大まわりしてもこわい思いをせずにやりすごせる。

こうした経験がつづいてきて、そんな気の持ち方に変化した自分がいる。急いでもなにも得にならないと気づいた。


グチのほとんどはこれなのか

 わたしがふとグチるとき。それにはたいてい、上で書いてきたことに付随してないだろうか。どうもそんな気がしてきた。そうかグチが出るとは自分だけ損してるって誤解してるときに出るんだ。きっとそうかもしれないし一部はそうじゃないかもしれないが。

グチに出せないときに店に行って飲んだり、カラオケで大声出したりしてウサを晴らしたりして。人間って…。


おわりに

 だから快晴の日を残念に思わなくても、同じ空の下にいるだれかにいい思い出ができつつあるんだろうなとか、しあわせを感じる人がきっといるんだろうなという日だと思えればそれでいいじゃないか、いつかは自分の番がくるし。

それに気づけてからは空を見上げると、ああ、そんな日になりそうだと一瞬思い描いてから、車のイグニッションキーをまわしている。


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