見出し画像

「具体」の系譜。🎨🖌

観た者に”何か”を迫る具体という芸術運動。

不勉強ながら私見を述べさせていただくと、その名称は具象に照応したものであると思わざるをえない。
具象とは端的に言えば、見たものそのまま。みたいな話だが、具象は具象なりに存在学を掘り下げる深い考察が下敷きになっている。
見たものそのまま。とはつまり、なぜ目の前にモチーフが在るのか、なぜそう見えているのか、存在とは何かを追求することだからだ。
つまり、存在をめぐる哲学そのものである。

しかし、具体はもっとラディカルなものを内包している。主に眼から思考する存在哲学としての具象に対して、身体の感覚、身体プロセス、時間、素材など、太古から我々の存在を貫く本質に触れようとする、言わばたとえカタチとして出てくるのが絵画や彫刻の形態をとってはいても、具体とは”身体表現”に他ならないのだ。

しかし身体表現としての具体は目の前の強烈な表現の下に隠されてしまい、本質へ向かって駆け抜けようとするそのプロセスと心意気は中々ストレートには掴みにくいかもしれない。
そういえば、「大事なものは目には見えないんだよ」と星の王子さまに言わせたのはサン=テグジュペリだった。

それとは関係なく、私は自身の表現活動を「目には見えないものの受け渡し」と言ってきたのだが、さすがに彼らとの親和性が低いとはいえないだろう。
思えば、自身の表現における方向性を決定づけた、鉄パイプを潰しまくって積み上げるという、その行為とプロセスに埋没している時、「あぁ、この鉄という素材が赤く生きている有限の時間と現象、俺が今こうして汗まみれで全力で叩き潰しているこの反復性と身体性。これをこそ主体として感じてもらえたらと思うのだけど、それは可能なことだろうか。」とよく考えていたものだった。

無論のこと、感じ取る人は感じ取るし、伝わらない人には伝わらなかった。それはおそらく具体の評価にも同じことが言えるだろう。
頭デッカチな人ほど感覚が閉じてしまっていて、何やら波動めいた本質を感じ取るのが難しいように見える。
具体は見て語る対象なのではなく、感覚的なぶつかり稽古なのだ。

そんな60年代〜70年代を彩った熱い芸術運動は、結果的に自らの価値を規定しブランディングできない日本文化界の体たらくにより、具体もモノ派も真に”我々のもの“とはできずにバブル崩壊を迎え社会が根底から揺らいでしまった。芸術運動そのものも下火となり、やがて時は過ぎていった。

熱い芸術運動に酔いしれた者たちの残滓は各大学や美大受験予備校の講師や教授に引き継がれ、給料をもらう自称芸術家たちの間で長い間燻り続けていた。
再びかつての熱い時代に再評価の目が向けられたのは2000年代に入ってからだった。中でも日本経済の下降と共に萎むことなく活動を続けていたリ=ウーファンはその中でも随一のスターダムにのし上がり、世界での評価を盤石なものとした。

結局のところ、日本の文化そのものがそうであるように、この島の外から評価を受けてようやくそれが素晴らしいらしいと思えるというのは、悲しいかな、もはや我々の伝統作法と化してしまっている。

今でこそ、具体やモノ派を誇らしげに語る日本文化人のその価値観の根底には、欧米の評価をありがたそうに推し頂く卑屈さが今尚ベッタリとこびりついているのだ。

翻って私の話をしよう。

私は勝手に自身の表現活動を具体と繋げているが、美術業界の評価はほぼ皆無であると言えるだろう。
無論のこと、単発の評価があり海外でも活動をさせてもらえているわけはあるが、あくまでも点であり線にも面にもなりはしない。
帰国子女と名誉白人が跋扈する日本の美術界は今後100年経っても自らの文化基盤から新しい芽を見つけ育てていくことはできないだろう。

それでも、いくらかの同志と呼ばせていただきたい購入者がいるから、私は活動ができている。
私の作品コンセプトをどれだけ理解し賛同してくれているかは分からないが、そこには言葉を超えた紐帯があるを私は知っている。
皆、”何か”を感じ受け取ってくれたからこそ、私の作品に惚れてくれているし、そこをこそ意識して私は巧妙に仕組んでさえいると言ってもいい。

気が付かない人は素通りさせ、ある感受性を持った人を動けなくする。

それこそ私が意識し作品に込める魔法の本体なのだ。

自戒を込めて、今後も強く意識して行動しなければならないのは、やはり海外での展開だろう。
日本の過去現在未来は全て外圧で動いているからだ。

日本人としての思考性を身に付けたなら、いよいよ我々は海を渡り異邦人として新たな不断の努力の中に身をおかねばならない。
国も企業も形こそ在外研修を助成しているが、人選はどこかしらブラックボックス化しているし、35歳までにエスタブリッシュメントしていることを前提とするようなものは、あまりに現状を理解していなさ過ぎる。

少し丁寧に説明しよう。
私は4浪+1留年しているために大学院を出たのは29歳の時だ。
世間では”落ちこぼれ”のレッテルを貼られるこの経歴は、美術界においてはけして珍しいものではないが、時々、世間とのギャップを感じることがある。
浪人は”落ちこぼれの負け組”への転落であるという固定観念は、これまた同じく100年後も払拭されていないだろう。

そもそも食うだけで困ってしまう日本の美術業界における人気の食い扶持は大学か予備校に居座ることだが、これがそのまま日本の美術界のレベルを著しく下げ、売れない自称芸術家の温床となっていることはきちんと指摘しておかなければならない。

その”食い扶持”でさえ中々空きが生まれないがために、単純に自身の時間と場所が作れず活動不全に陥るケースは山一個分では済まないほどの数である。

私が在籍した東京芸術大学工芸科における現役合格は30人中4人もいれば、今年は多いね!と驚かれる世界である。最も多いのは2浪くらいだろう。
2浪だと大学院まで進学して修了するのは26歳だ。それまで主な力作の発表ができる場は卒展と修了展の2回だが、親が作家でもやっていない限りは普通、卒業制作からいきなりクオリティが高いものは作れない。初めて満足いく挑戦ができるのは修了展になるかもしれないが、卒展からの2年では準備が少な過ぎる。

卒展で行ったことをじっくりと検証して1年、実験しながら制作に繋げるのに2年は欲しいところだが、検証からすぐに次の本番がやってきてしまうがために、修了展で卒展を超える作品を作れる学生は少ない。

その時点で年齢がいくつであろうが、社会性も作家性も十分に育たないまま社会に放っぽり出されてしまった芸術家の卵たちは、その殆どが満足な環境を準備できずに才能の芽を枯らしていくのが現状である。
無論のこと、教授や先輩にゴマスリ忖度して得た”食い扶持”にぶら下がっている教授やその手下たる講師や助手は、その問題点に目を向けることすらできない。

仮に26歳で大学を出て、環境を整備するのに少なくとも2年はかかる。
そこからようやく制作活動を本格的に行い始められるとして、満足のいく作品が作り始められるのにはもう1年は必要だろう。

注意しなければならないのは、仮に自らの環境がモノ作りの仕事を受注する場としても機能している場合、仕事に時間も感性も奪われ作家としての芽はほぼ摘んでしまう。
行く先は受注制作を主とする、製造業としてのアーティストだ。

上記の計算から、作家としてのキャリアをスタートさせた時点で29歳だとすると、私の修了した年齢と同じになる。
私は在学中からアーティストとしての自立をそれなりに計算していたため、この時点では勝負はゴブだと言える。とはいえ、やはり環境整備には2年かかった。

さて、問題はその後の6年足らずで言語の習得と申請書類の作成とをマスターしながら、自身のアーティストとしてのキャリアを着実に伸ばしていかなければならないことだ。
しかも在外研修を勝ち取るには、それなりに業界で通用するプロフィールを持っていなければならない。

作品制作をしない人には理解できないだろうが、これ殆ど無理なキャリア形成の計画である。
私は今年39歳になるが、ようやく作品制作における勘どころが身に付いてきたと感じている。

たしかに、私に能力がないばかりに著しく成長が遅いと言われれば、それを否定することはできない。
広い土地と潤沢な資金が実家にある人間と比べて、どうしても物事が遅々として進まないという比較を私は実際に目にしているが、それも言い訳と言われれば口をつぐむ他ないだろう。

それでも、できる限りの努力を続けていることに嘘偽りはない。
キャリア形成において完全にチグハグだと思える日本の美術業界の中でも、なんとか海外での滞在制作の機会を掴み、自身のプロフィールを更新している。

一体どうしたら理解してもらえるかは分からないが、このままではいつまで経っても日本の文化を評価するのはアングロサクソンであり、本来ならば同時代の共通の文化的背景を持った人間にこそ最も共感を呼ぶはずの”現代アート”とやらも、残念ながら海外での評価を経て周回遅れで逆輸入されるという皮肉は変わらないだろう。

自らの文化を自らで評価し価値付けできないことの愚かさと焦燥は、やはり日本が具体的に多民族国家になった時まで顧みられることはないのだろう。

排外的な保守陣営が牛耳る現代日本ではあるが、否応なく日本人は減りその分その他のアジア人がその隙間を埋めていくだろう。
各国の風通しは良くなり、固有の文化や価値観は博物館にストックされ、我々は地球人として初めて同種のホモ・サピエンスであるということを実感し共感できる時代を迎えつつある。

その時、アーティストはどんな存在になっているだろうか。
きっと創造性を持って最先端を走る存在になっていることだろう。
ADHD的な他者との軋轢は起こらない。なぜなら、その時、我々の主たる創造世界は3次元世界ですらないだろうからだ。

だからこそ、今のうちに、身体や実感やそこから見て感じる時間や空間を大事にしたい。
今こそ、この時代だからこそ、「感覚的なぶつかり稽古」に今一度、回帰してみたいと私は思うのだ。

だが、きっと私の作品は美術館にはストックされないだろう。
いつか奇跡的に保存状態が良いものが掘り起こされて、こんな人物もかつてはいたのだと、誰かが私の言葉と作品を博物学的に検証することになるだろう。

そう、この言葉も何百年、何千年と、インターネットの地層の中に埋もれ続けるに違いない。
作品の写真は辛うじてデータとして残るだろう。

さらば愛しき我が3次元世界。

まだ見ぬ未来が待ち遠しく感じる今日この頃である。

記事を読んでいただきありがとうございます!ARTに命を捧げています。サポート大歓迎です!現在の地球に生きる同士としてよろしくお願い致します◎