【書と評】NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法 を読んで

今日は本をご紹介します。友人に勧められて読んだのですが、とても良かった。「NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法」という本です。NVCとはノン・バイオレント・コミュニケーションの略。非敵対的なコミュニケーションを指しています。僕は人の心の成長はコミュニケーションに大きく表れると言えると思っています。それは賛否あるとしても、コミュニケーションの質が人生の質を相当上げてくれるのは確かです。本の内容をご紹介します。

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■ NVCとはどのようなもの?

NVCはアメリカのデトロイト出身のマーシャル・ローゼンバーグによって考案されました。ローゼンバーグは治安の悪かったデトロイト近郊で育ったことから暴力に代わる平和的なコミュニケーションに関心を持ち、NVCを考案しました。紛争や戦争で疲弊した地域、コミュニティを中心に60以上の国々を訪れ、数万人を対象とするワークショップを行うなど精力的に活動しています。エルサレムでイスラエル人とパレスチナ人の間でワークショップを行う他、ナイジェリア、ルワンダ、シエラレオネなど多岐に渡って活躍しました。

NVCのプロセスは、①観察(observations)、②感情(feelings)、③必要(needs)、④要求(request)からなります。まず好き嫌いを別にして、人が何をして何を言ったのかをただ観察する(①)。その後自分はどう感じているかを述べる。傷ついている、怯えている、わくわくしている、面白がっている、いらだっているなど(②)。そして、自分が何を必要としているからその感情が生み出されるのか(③)明確にする。そして相手に向けて具体的な要求をする(④)。

例えば「〇〇君、まるめた靴下がテーブルの下に2つ、テレビの脇に3つもあると、お母さんはいらいらしてしまうわ。みんなで使う部屋はもっと片付いた状態にしておきたいの。脱いだ靴下は、あなたの部屋か洗濯機の下に入れておいてくれないかしら?」という感じです。

コミュニケーションにおいて、この4つの要素を出来るだけ率直に表現できるようになることと(自分で認知できるようになること)、相手の4つの要素を共感を持って受け止めることがNVCでは必要です。話す相手がこの要素に沿って話してくれる訳ではないので、不足しているときにはこの要素に則った質問をしていきます。起こった出来事をどう見ていて、何を感じ、それはどんなニーズから来ていて、何をして欲しいと思っているのか。まずはそれをただ受け止めるのです。その効果は絶大でした。例えばイスラエル人とパレスチナ人のワークショップでは、20分話しを聞いてもらったあるイスラエル人の居住者は、自分と政治的に対立するものがこのように自分の言葉に耳を傾けてくれたなら土地の権利を手放してイスラエルの領土として国際的に認められている地域に戻ることを考慮してもいいと宣言したほどだったのです。


■ コミュニケーションを阻む要素

有効なコミュニケーションを阻む要素は色々あります。主に言われているのは、相手を道徳的に判断すること、相手を分析すること、比較すること、自分の責任を回避すること(~しなければならない、〇〇がこうしたからこうなった)、相手に要求でなく強制すること、報酬によって相手を動かそうとすること、などです。

ローゼンバーグは相手が正しいか間違っているか判断したり、分析しようとしたりすることについて、スーフィーの詩を引いています。

(スーフィー:イスラム神秘主義。イスラムはマホメッドがコーランを授かったことから始まりました。後世、戒律と義の神であるアラーの愛や存在を様々な行や舞踊などで感じ、アラーと自己とを一体化しようとする動きが発展し、その思想をスーフィズム、実践者をスーフィーと言います)

「まちがった行いと正しい行いという思考を超えたところに、野原が広がっています。そこで逢いましょう」(ジェラルディン・ルミ)

これを読んで僕は椎名林檎のジユーダムという曲の歌詞を思い出しました。

「敵か味方か勝ちか負けかを決めた瞬間、急に世界が暗く狭まっていくの見ていたでしょ?さあ還ろう、自由へと」。(椎名林檎って天才だと思わない?)


■ 善悪を分ける思考の源泉

世の中は複雑で豊穣でもありますが、そんなことを言っていると子育てはできません。だから、外で話しかけてくる男性は危険だから話しちゃだめ、道路は信号以外渡っちゃだめ、学校のクラスメイトと兄弟とは仲良くしなきゃだめ、廊下は右側を歩かなきゃだめ、なのです。反抗期に近づいて、世の中はそんなに単純じゃないと分かってきます。親が完璧じゃないと分かって毒親という単語を知り、ご近所の人が安全とは限らないと聞いてサイコパスという言葉を知る。それに意外に他の皆も自分と同じように変わっていて、悩んでいて、優しいのだってことも知るでしょう。だけど、ダメなものとそうじゃないものを分けるという思考の枠組みがあるということにはなかなか気づけないことがあるのです。

そして、ダメなものとして抑圧されやすいものの代表が、「感情」と「欲求」です。この2つは誰かに言うだけでなくて誰かから聞くのも怖いと思うことがあります。聞いたなら何かしなければならないように思ってしまうからです。だから、これだけはしないで欲しい、というコミュニケーションが癖になることがあって、それもコミュニケーションの罠となります。

ローゼンバーグは仕事仲間の「『するな』を『しろ』といわれたとき、わたしはただ『するものか』と思ってしまう」という言葉を紹介しています。これが反感を買う上に、本当はして欲しいことをしてもらえないという(だってして欲しいことを言ってないからね)悲しい結末を起こすのです。恋人同士でも、上司と部下の間でも、よく見るコミュニケーションです。

そして、こういう事をする人はこうだから、と相手をジャッジすることになっていきます。先日僕が、間違えて母に電話をかけてしまったことがありました。その時にそういえばと用事を思い出して、父にメッセンジャーで用件を送っているのだけど、見てたかな?返事が来ないんだよね、と尋ねました。母は少し考えて「見てたみたいよ。あの人新しいスマホに全然慣れようとしない人だからね」と、ちょっと腹立たし気に答えたのです。おお、これがよくあの二人が喧嘩してる原因だなぁと思い(都合が悪い時は黙ってサボタージュするか、酒に力を借りて感情を爆発させるようなところがある父なのです)、そうやって正しいと裁くことでしか誰かと闘ってこれなかった母の脆さに悲しみを覚え、ああだから二十歳の頃に僕は、父には言っていないけれど母にはあなたの子に生まれて良かったよと言いたくなって、そう伝えたのだったなぁと思い出しました。それを聞いて母は何も言わなかったように記憶しています。


■ 共感することの価値

ローゼンバーグは共感することで多くの道を開いてきました。ギャング集団の、武器を置いて話しをするなんて馬鹿げているとしか思えないという主張を45分聞き続けたところで彼らがローゼンバーグのことを「これまで俺たちが出会ったなかで最高の語り手だ」と言ったそうですが、ギャングたちはローゼンバーグの主張の効果を身を持って感じていたのです。

ローゼンバーグの共感の大切さに関するお気に入りのエピソードはある小学校の校長先生の体験談でした。ある日校長先生が昼食を終えて校長室に戻ると、ミリーという児童がしょげた様子で座っていました。校長先生を待っていたのです。ミリーは話し始めました。「アンダーソン先生、こんな経験をしたことがありますか?自分では誰のことも傷つけようなんて思っていないのに、自分がやることなすこと誰かを傷つけてしまう、そんな1週間」。「ありますよ」と校長は答えました。「あなたの気持ち、わかるわ」。ミリーはどういう1週間だったのか、話しを始めます。

後に校長はローゼンバーグにこう語ったそうです。「その時点で、わたしはとても大事な会議にかなり遅刻していました。まだコートも脱いでいなかった。大勢の人を待たせておくことはとても気がかりでした。仕方ないので、わたしはミリーにこう尋ねました。『ねえミリー、わたしはあなたに何をしてあげられるかしら?』。ミリーは手をこちらに伸ばし、両手でわたしの肩をつかみ、真正面からわたしの顔を見据え、はっきりとこういったのです。『アンダーソン先生、わたしは何もしてもらいたくないの。ただ、話しを聞いてもらいたいだけ』。これはわたしの人生において、もっとも重要な学びの瞬間でした。それも、子どもから教えられたのです。わたしはこう考えました。『おおぜいの大人が別室でわたしを待っていることなど、気にすることはない!』。ミリーとわたしは、もっとじっくり話をするために長椅子に移動しました。そこに座ってわたしは彼女の肩に片腕をまわし、彼女はわたしの胸に頭を預けて片腕をわたしの腰にまわしました。そして、ミリーはいいたいことをすべていい終えた。しかも、たいして時間はかからなかったのです」

僕は娘にこの世界からいなくなれたらいいのに、という内容の詩を見せてもらった(見せられた)ことがあります。その頃娘は中一でしたが若干中二病的で、でも対比など使いながら表現を工夫してもいました。その思想が自分たちの子育てから生まれたんだって思ったらそりゃぁひるむよねと、嫌そうな顔の奥さんを見ながら、ただ詩を無言で読んで、少し表現についての感想を言い、話しを聞きました。分かったのは、彼女もただ伝えることに緊張していたのだということ。夜中にノートにこっそり書いていたのは、受け入れてもらえるか不安だったからで、僕がいる時に僕の所にそっと持ってきたのは、僕ならきっとただ読んでくれると思ったからだったのでした。読みながら僕も色々思って、色々言いたいこともありました。そんな中でもあなたの希望だってあるでしょうとも言いたかった。でもすべては相手の話しと気持ちを受け止めてから、ようやく口にできることだったのです。


■ 怒りと感謝

ゴルダ・メイアがイスラエルの首相だったときに、大臣をこうたしなめた事があります。「そんなに謙虚でいてはいけません。あなたはそれほど偉大ではないのですから」。僕もそうですが、人はそれほど偉大でもないのに、自分の言葉が相手に与える影響を怖れることがあります。だけど、伝え方を気をつけたいメッセージもいくつかあります。

伝え方や、そもそものコントロールが難しい感情に怒りがあります。ローゼンバーグが勧めるエクササイズはとても強力なので紹介します。怒りは相手に対する一方的な決めつけやレッテル貼り、非難から生じていることがほとんどです。人はこう「すべき」である、彼らはそうするのが「当然だ」というふうに。僕はコールセンターにいたので、クレームがこうやって起こるのをよく知っています。マイクの音が遠いのが許せない人もいますし、保留の音の品質が悪いのが許せない人も、自分の事を憶えていてもらえないことが許せない人もいます。それに対応しているオペレーターも、上司の優柔不断や、同僚の不勉強さが許せないことがままあります。

エクササイズはこういうものです。まず、「わたしが嫌いな人々、それは・・」というリストを作成します。否定的な評価を並べてみる。そうしてから自分に問い直してみましょう。「ある人物をこう評価している場合、自分は何を必要としているのにそれが満たされていないのだろうか」。このエクササイズで、人に対する評価ではなく自分が必要としているが満たされていないことは何かという視点を身につけることができます。

感謝も相手に伝えるのが難しい表現の1つです。相手への称賛は相手を評価するという形になりやすいからです。上から目線の表現になってしまうのですね。NVCでは感謝を次の方法で伝えます。①相手のどんな言動が自分の幸福につながったのか、②それによって、自分が必要としていたどんなことが満たされたのか、③その結果、生じたよろこびの感情、この3つを伝えるというものです。ゴルダ・メイアじゃないけれど、感謝を伝える時に謙虚であってはなりません。それで気持ちが伝わるほど我々は偉大ではないのです。そしてもし誰かが感謝を伝えてくれたなら、喜びを持ってありがとう、と受け取りたいですね。


■ NVCの信念と僕が大切に思っていること

ローゼンバーグはワークショップでNVCの目的から語りはじめることが多いそう。それは、「お互いのニーズが大切にされる関係性の質の構築を目指すこと」です。彼は神話学者ジョーゼフ・キャンベルの「Follow your Bliss(至福を追求せよ)」という言葉を言い換えて、「Don’t do anything is not play(「遊び」でないことは何もするな)」が大切なのだと言っています。自らのニーズを大切にするということです。否定的表現なのが気になりますけれど、好きに言いかえてみて下さい。

僕はもともとジョーゼフ・キャンベルのファンでもあります。キャンベルは世界の神話の型を研究し、その英雄神話の型についての授業を聞いたジョージ・ルーカスが未来の神話としてスター・ウォーズを創りました。

キャンベルの語った、僕がとても好きな言葉に「あなたは電球か、それとも電球が灯す光か」というものがあります。僕らが生きるのを邪魔するのは、全部電球としての僕らを定義するものなのです。確かに僕たちは割れやすい。折れやすい一本の葦です。だけどそのことに、自分の輝きを邪魔させてはならない。僕はそう思っています。キャンベルはインドの神話に出てくるインドラという神様の網のイメージが好きでした。網の結び目には宝珠が結われていて、その網が果てしなく広がっている。一つ一つの宝珠は宇宙であり、僕たち一人一人も一つの宇宙です。それがお互いの光を反射しあってきらきら輝いている。人と人が輝かせあうような、響きあうような、イメージ。現実にはそれは言葉を通じて、コミュニケーションによって為されるのではないでしょうか。

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