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料理をつくる、こめるハート。

◆東佐誉子先生という方をご存知でしょうか?

もちろん、お会いしたことがあるわけない。大正・昭和期の料理研究家で
あり、日本女子大学の教授でした。大正13年農商務省の実業練習生として渡仏。
当時は誰もかれも海外にいけない時代であり、フランスパリにあるかの有名なコルドン・ブルウで学ばれたそうです。その後もいろいろな国を訪問され、帰国。
日本女子大学の教授に就任されたそうです。フランス料理の教授をされた方です。
私が、故人である東先生を知るきっかけは、食の根本はどこにあるのかという研究心から、「典座教訓」「赴粥飯法」を手にとって読み始めました、この書物を書かれた道元禅師とは、いわゆる鎌倉新仏教時代の禅宗の一派、曹洞宗を開かれた方。入宋されて寧波での体験に基づいて述べられたものです。「只管打座」「行往座臥」いつも修行という考えのなかで、普段の生活そのものにも仏のこころ、真理を知るすべが開かれている。
日本の精進料理に不可欠な根本的思想のひとつだと思います。宗派でいろいろあると存じますが、仏教研究家ではないので深くは申し上げられません。
 そういう思考があり、立場や時代は違えど、さまざまな料理に対する研究の紹介があり「東佐誉子の人とことば」『いま蘇る味の世界』という本に出会ったのです。
                  (講談社 出版サービスセンター)
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先生は次のように述べておられる。
「私の食べ方は味覚を通して、その民族の歴史と文化と魂に触れることであった。そして、私の一つの疑問は人間と自然との関係であった。多くの人々が単なる物質とのみ自然(食品をはじめあらゆる動植物・鉱物)も生きており、私達と同じ生命のあらわれであるという直覚であった。私は人間以外のあらゆる事象をも、自己と同根の霊的存在として敬し、礼を尽くした。愛をもって自然に親しめば、自然も懐を開いて、その奥にかくれた相を現し、魂が交流する歓喜を知ったのである。
フランスは、地上で最も食事を尊ぶ国である。食品内在の美を認め、愛し、これを歪みなく発現しようと最上をつくす国である。私はこの国の人々と全く同じではないが、(私のうちには万物を霊的存在と見て敬し、礼する思想が深く根を張っている)、食物を物質視し単に任下の栄養供給源とのみ見て、機械的、事務的に食事を取り扱うような殺風景な地上を作り出さぬよう-地上に、食物を通して美と愛の世界を現出する使徒になりたいと、願うにいたったのである」と。
中村璋八『作る心・食べる心』平野正章『典座教訓・赴粥飯法』の中に引用されている。
東先生の食哲学は、現時点における私たちの食生活への警鐘でもあり、未来にわたる食思索のための啓示でもある。
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それぞれの立場や国の違いなどがあり、感じ方もあるでしょうが、料理、食文化には言葉で伝わってくる。またその奥のじわっとした有難さは洋の東西を問わず、あるのではないでしょうか。人は人ために食べ物を作り、料理をし、食べる。単純なことだけど、その根本は、また宇宙というか、自然に返していくこと。共有していくことに他ならない。

まずは序章の『台所箴言』「世界の馬鈴薯料理集」(中央公論社刊)
からいくつか抜粋します。
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台所箴言
一 形だけのものをつくるな
二 自然を活かし、生命(いのち)を発現(だ)す、これが料理道の中心である
四 人間の「深み」だけの味が出る。心が料理をつくる。
十 愛と正義の波動を振起する食べ物を、全人類が摂るようになった時
  この世から戦争が消えるだろう。
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胸の奥にしみわたる、感動てきなメッセージでしょう。
食べ物で栄養を、書物でもそういうこころの栄養ではないでしょうか。
さらに別のページでこんなことをおっしゃっています。
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「新しい調理学」
嫁入叢書-料理篇 昭和四年 実業之日本社刊
新しい調理術とは、第一に科学的基礎の上に立つことであり、第二は芸術的手腕によることであります。
たとえば、ここにある食品材料がおかれてあるとしますと、私たちは、先ずその食品中に、どんな栄養素と栄養価が含まれているかを考え、更に、老幼、男女、職業の差、其の他に応じての各人の保健食量、また食品に対する合理的な熱の応用方法等の細密正確な知識をもたなければなりません。
即ち食品に対する科学的知識でありまして、つまり栄養学の教える所の分野なのであります。近代にすべてがそうであると等しく、新しい調理学もまた科学の基礎の上に立たねばならぬのであります。
しかし、再び申しますならば、料理は単なる小手先の技巧にすぎぬものではないと同時に、また単なる栄養価ある材料を雑然とよせ合わせた集合体でもありません。否、そのような集合体であってはならないのであります。
何故なら、料理はその究極の目的が、人体に快く摂取されることであり、人体の中へ十分な消化と吸収を意味するものであるからであります。
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ずいぶん過去の講座なのに、今でも大事だと思うことが書かれていると思います。
大切なのは触れることで、自分を豊かに、高めていく栄養とすることだと感じます。
抜粋した先生の箴言(アフォリスム)が載っておりました。いくつかご紹介しましょう。
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◆ 食卓は美と喜び、詩と芸術の世界である。
◆多くの生物にとっては、単に食欲の目標に過ぎぬ物質(食物)も、人の心の琴線にふれると、創造主の祝福の讃歌として映る。
◆食卓での最大のタブー(禁断)は黙食(座のメンバーと談笑せず、孤り黙々として食事だけに専念集中すること)と枯淡(こたん)とである。和やかに、明るい調子と、行き届いた愛の態度と、ユーモアが最も尊重される。
◆食卓の雰囲気は会食者の教養の深さだけのものになる。一人でも調子を外すと、むざんにも全体が壊れる。これは管弦楽演奏の場合と全く同じである。
◆食卓で自己を不完全に表現することは罪悪である。また隣人を不快にする権利もないのである。また人を支配する権利もない。
是非お読みになってください。たくさんの愛溢れる言葉がちりばめられています。
 ※晩年辛い境遇にあわれたようですが、教え子の方がたが実際に先生のお考えを書き残し、また出版されたりした中から、紹介されている言葉は美々しく生きていると思います。

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