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ジャグリング・ユニット・フラトレス第6回公演「わが星」評

 ジャグリング・ユニット・フラトレス第6回公演「わが星」を見た。
 私が見たのは2022/5/20(金)19:00-の初回。客席は4面で、私は入口を入って右側の面から見た。(私の見た面が正面だったのだろうか。)


0.前提として

私の観劇経験

 私自身の「わが星」の観劇経験と、フラトレスの観劇経験を記しておく。
 まず、私はフラトレスの「わが星」観劇時点で原作(=劇団ままごとの「わが星」)を観ていない。だが、阪大の学生演劇サークル「六風館」が2015年4月(私の在学時)に公演をやっていたのと、ジャグリング界隈でも「わが星」のファンがいることもあって、「わが星」の存在自体は知っていた。私はわが星のオープニングは聞いたことがあるし、脚本にも目を通したことがあった。ただし、劇団ままごとの「わが星」を見たのは、YouTubeで期間限定公開されている公演映像をフラトレスの観劇後に見たのが初めてだ。

 また、私はフラトレスの公演を見るのは今回で4度目となる。フラトレスは旗揚げ公演の頃から追っている団体のため、演出家の宮田直人氏の”作風”には慣れている、と思う。

本作の位置付け

 「わが星」にとっての本作の位置付けを確認しておこう。
 以下の公演紹介文でも述べられている通り、「わが星」は演劇界隈にとっては結構知られている作品である。しかし、「ジャグリングアレンジ」されたのはおそらく本作が初めてだろう。

 『わが星』は、作・演出の柴幸男氏が主宰する劇団ままごとにて上演され、2010年2月には第54回岸田國士戯曲賞を受賞。その後も同劇団および数多くの団体によって再演が行われてきました。
 主人公の ”ちーちゃん” は地球の擬人化であり、人の一生と星の一生、生まれて消えるまでを、クリック音に合わせた発話・動きによって表現・進行していくラップミュージカルという形態をとっています。
 当団体では、この名作をジャグリングアレンジしてお届けします。2021年12月の創作過程の公開公演(=ワークインプログレス)を経て、より進化したジャグリング版『わが星』をお楽しみください。

フラトレスHP 第6回公演「わが星」紹介文より

 「わが星」ウォッチャーである観客にとっては、ジャグリングアレンジされて原作とどのように違ってくるのか、フラトレスの演出担当である宮田氏の解釈によって「わが星」がどのような新しい側面を見せるのか、という点が気になる所となる。

 次に、フラトレスにとっての本作の位置付けを確認する。
 フラトレスはこれまで、演出の宮田氏が脚本を書いていた。オリジナルのストーリー、オリジナルの演出。しかし本作は、初めて「原作」がある作品を上演する。ジャグリング無しで成立していたものにジャグリングを加えることは、いちからジャグリングありきで脚本を書くことより難しいだろう。そういった理由で、本作はフラトレスにとって挑戦作となる。

 フラトレスウォッチャーである観客にとっては、宮田氏が自分自身の言葉を用いずにこの「わが星」をなぜやるのか、という所が気になる所となる。

※注意

 私の鑑賞の時系列で言えば、
①フラトレス ワークインプログレス公演(2021年12月)
②フラトレス わが星(評の対象である「本作」、2022年5月)
③劇団ままごと わが星(原作、2015年の再々演@東京の動画)
であるため、本作観劇時の私には原作と比較した評価はできないはずだが、以下の評においては、原作との比較を用いた評価をすることがある。この評を執筆している今の時点の私が振り返ってする本作への評価は、観劇直後に「評がむずい」と言っていた私の評価とは異なることをご留意いただきたい。

 私は、作品の評は最も理想的な鑑賞を前提になされるべきだと考える(作品の一部の見落としや文脈の抜けは、解釈を変え、全体の評価を変えてしまうため、理想的な批評はそれらを網羅していないといけない)。一方で、作品は評者自身の鑑賞体験それ自体で評価されるべき(原作を知らないと楽しめない作品というものはあるが、その場合の評は相応のものとすべき)と考える立場から、なるべく本作の観劇後の評価も書き記しておきたい。したがって、1.観劇後の所感、2.原作の検討、3.本作に特有な部分の評価、という大まかな流れで以下の評を書いてゆく。本作を観た読者が、原作未観劇であれば1(と2)、原作観劇済みであれば2と3を読めば近い視点からの評になるだろうことを意図している。


1.観劇後の所感

 終劇後すぐには上手く評価が出せなかった。手放しで素晴らしかったと言えるわけではないが、総合的にはまあ良かった(渋い顔)、という評価になる。
 観劇直後(当日夜・翌日)の所感を以下に記しておく。

 良かった点
・「わが星」を楽しめた。(原作/脚本に基づいた良い瞬間があった)
・フラトレスのいつもの手法。(特に加速するシーンのポイ)
・「わが星」の良さを再発見できた。(これは私の鑑賞体験に特有なものか、または私の解釈が大いに含まれるかも)

 気になった点
・観客各々の観劇経験によって評価が分かれるのではないか。
・ラストシーンの一つ前、オリジナル楽曲の部分の是非。

良かったシーン

・ちーちゃんと月ちゃんの遊ぶシーン(けんけんぱ)
・男子学生が加速するシーン(ポイジャグリング)から、
夏、自転車で下る坂道の情景まで
・月ちゃんの手紙のシーン
・「手、つないでもいい?」の台詞
・ラストシーン

 本作を観劇した時、私が特に良かったと感じた・良い意味で印象的だったシーンは上記の通りである。それ以外の、オープニングシーンや、両親の一日のルーティーンのシーンは「わが星」という作品について述べる際には特筆すべきシーンではあるが、私はワークインプログレス公演で一度見ていたため、それほど強く印象に残ってはいない。(悪かったわけではない。もし私が初見であれば、オープニングシーンや両親の一日のルーティーンのシーンをここに挙げただろう。)

 私が本作で最も心動かされたシーンは、月ちゃんの手紙のシーンだった。ここについては純粋な芝居/ストーリーによる良さだったと思う。同様に、上記で挙げた「手、つないでもいい?」の台詞やラストシーンの良さも、芝居の良さだと思う。
 「わが星」のストーリーを、私は3つの関係性で整理して理解している。すなわち、「わが星」では、
①ちーちゃんと家族との関係性、
②ちーちゃんと月ちゃんとの関係性、
③ちーちゃんと男子学生との関係性、の3本が立てられている。
 私が良かったシーンとして挙げているうちの3つは、このそれぞれの関係性に対応している。「手、つないでもいい?」の台詞は①家族との関係性、月ちゃんの手紙のシーンは②月ちゃんとの関係性、ラストシーンは③男子学生との関係性のストーリーラインを描く最後のシーンである。
 私が全ての関係性についてのラストシーンを良かったシーンとして挙げているということは、私がこの「わが星」というお話を気に入っているということに他ならない。ジャグリングアレンジの作品ではあるが、「わが星」のお話をきちんと楽しめたということを、まず評価したい。原作を台無しにするという最悪の事態にはならなかったことを。
 ストーリーに関しての詳述は、2.原作の検討での記述に譲る。

 ジャグリングが用いられるシーンの話もすると、男子学生が加速して光速を超えようとするシーンが良かった。ポイによるジャグリングは、3ポイまでやっていたこともあり、それ自体も良かったし、「ジャグリングが物語を補強する」と私が呼んでいるフラトレスのいつもの手法の良さが現れていた。(※純粋な芝居(動きや言葉)だけでは観客に伝わりにくいような登場人物の感覚を現実にphysicalに(物理的に/身体的に、目に見えて)体現することで、観客がより物語に対して”リアルさ”を得ることを私はそのように呼んでいる。私の過去のフラトレス評を参照。)
 このシーンは脚本上、スピードの加速という動的高まりがありながらも、光速を超えるという現実味の無さ・具体的な想像のつかなさから、どこか抽象的でつかみにくいシーンだと思う。ジャグリングを用いることで音のリズムだけでなく運動のリズムの速度感を感覚的に味わえる一方で、男子学生がどのように光速を超えたかという具体については説明せず、しかしポイの道具としての造形の抽象さ、そしてその運動の軌道が星の軌道を思わせるという、ジャグリングでの演出に適した、非常にちょうどいいバランスで表現されたシーンだと感じた。
 私はこのシーンの途中から、『めくるめく、めまいがする』くらいにトリップしていた。身体を物理的に揺らしてノっていたと思う。

 そして、シーンの高まりが加速しきったとき、男子学生一人の役者によるソロのシーンになるのだが、ここのシーンがとても気持ち良かった。男子を演じていた役者の語りの上手さもあり、また、夏、自転車で下る坂道の情景を私が好むということもあり、このシーン独立でも高く評価したい。
 そして加えて、一つ前の加速のシーンとの対比が気持ち良かった。加速のシーンは、ジャグリングも用いていた多人数での舞台上の情報量の多いシーンで、だがしかし抽象的な描写に留まっていた。そこから役者一人の、しかも語りのみのシーンでは、言葉だけで具体的な情景描写がなされていく。そのシーンで描かれる坂道を自転車で下るときの重力からの解放感は、図らずも、物のない・言葉だけがあるという舞台上の装置のことをも表していた。
 加速のシーンは男子学生にとっては怖い・失敗できない、緊張感のあるシーンで、これを現実のジャグリングの失敗できなさ・緊張感にかけている。坂道の情景の想起シーンは、スピード(リズム)があり力のベクトルが働いているのは同じだが、それはあくまで男子学生の走馬灯のようなイメージの中だけだ。
 私が本作のこの部分を気に入っているのは、対比的な二つのシーンの振り幅の為だ。ジャグリングを用いた加速のシーンは、いわば全部盛りともいうべきフラトレスが入れられる限りの要素が詰まっている。だがその次のシーンでは、先ほどまでの要素が全く不要だというように演劇の最もシンプルな形態が提示される。具体的な情景描写にも言葉さえあればいい、という演劇の、言葉の力を信じているからこそ全てを役者一人の語りに譲り渡すことができたのだろうし、それをいくつもの手法が可能なフラトレスがしているということを嬉しく思う。引き算の良さが強く出ていたシーンだったし、演出の宮田氏が「何も足さない」という判断をしたという点を私は高く評価する。

 純粋な芝居のシーン、ジャグリングのシーンについて述べたので、それ以外のシーンについても述べる。ちーちゃんと月ちゃんの遊ぶシーン(正確には、何して遊ぶか決めるために遊びの候補をいくつも挙げるシーン)も、私が評価する良いシーンだ。何気ないシーンだが、いくつもの遊びの名前が挙がるという点で「遊び」論もやっている私にとっては面白いシーンだったし、その演出法として、リングを地面に置いてけんけんぱ(※「hopscotch」、「石けり」や「かかし」と呼ばれることもある遊び)をしていたのが良かった。
 この、子どもにとっては全てが遊びになる、”遊んでしまう”ということは、本作全体の解釈においても重要になる。

気になったシーン

・(シーンではないが気になったこととして、)観客各々の観劇経験によって評価が分かれるのではないか。
・ラストシーンの一つ前、オリジナル楽曲の部分

 気になった点の一つに、観客の観劇経験によって評価が分かれるのではないかということを挙げた。
 私は昨年12月のワークインプログレス公演も見ているため、「わが星」をちょっと知ってる+フラトレスを知ってる+本作(の試作)をちょっと知ってるという前提があって本作を見たことになる。しかし、そのような前提知識がない観客、例えば「わが星」や劇団ままごとをよく知っていてフラトレスを初見の演劇人や、「わが星」もフラトレスも初見だった観客がどのように本作を受け取ったかは分からない。特に、「わが星」もフラトレスも初見という観客が情報量を処理しきれたのかは疑問である。

 私が、本作の中で残念に思ったのが、ラストシーンの一つ前、オリジナル楽曲の部分だった。オリジナル楽曲が使用されることは、事前に演出の宮田氏の宣伝ツイートなどで知らされてはいた(私は知っていた)。
 端的に言えば、私はこの部分の鑑賞に失敗した、と思う。
 その曲が流れ始めた瞬間、私は詩を追っていた(「誕生、時計の針を揺らして ~」)のだが、役者がそれぞれ歌い始め合唱になったとき、非常に聞き取りづらくなってしまった。また、たくさんのライトアップボール(ランプ照明のような発光するボール)での多人数によるジャグリングが同時に行われることもあり、私が理想的に鑑賞できる情報量の許容量を超えてしまったというのが正直なところだ。さらに、ジャグリングにミスがあり、ボールが一つこちらの客席近くに転がってきてしまったために、作品のノイズとなり、そのことが余計にこのシーンを私がきちんと受け取れないことに寄与した。
 舞台上で何が起こっているかという意味でも、その解釈上の意味でも、まとまらないそれを私は眺めていた。私はこのシーンを受け取ることに失敗したため、ただそのことを残念に思う。
(※演出上、光を扱うこと自体に関しての解釈は、3.で検討している。)


2.原作の検討

原作に対する私の評価

 原作に対する私の評価は高い。その理由は一つには、作品の構造・手法に新規性があるということが挙げられる。もう一つの理由は、作品が発するメッセージ・テーマ(思想)を私が重要視するということが挙げられる。
 以降の原作の検討では、私は形式面と内容面という雑なくくりで二つに分けて、私が述べた、①作品の構造・手法に新規性があるということ、②作品が発するメッセージ・テーマ(思想)を私が重要視するということを詳しく見ていく。

形式面(構造・手法)に関して

 「わが星」は、星の一生と人の一生を重ね合わせるという発想で全体が構想されているが、それに関して一貫した物語がある訳ではなく、それはコンセプト(と言えばいいのか、全体を一つにパッケージングするためのアイデア)となっている。星の一生と人の一生という時間の長さの異なるものを重ね合わせるときの齟齬(ズレ)だけでなく、途中挟まれる4秒の休憩までの約12分ほどのシーンを残りの約80分で再度”引き延ばして”やるという構成も、また、ちーちゃんがくるりと回ると一日が経ち、反対に回ると過去へ遡るという、度々途中で時間が自由に弄られることも、「わが星」が一つの連続した時間軸でのストーリーを語る作品ではないことを表している。しかし、それを一つの作品として成り立たせているのは、上述のコンセプトである。
 度々用いられる言葉遊びのような、そのずらしによるダブルミーニング以外にも、人と星との接続が行われている箇所としては、ちーちゃんと祖母との会話のシーンがある。人はずっと遡れば星から生まれたということ、そして(祖母の信仰によれば)人は死んだら星になることが述べられる。
『星から生まれて、星に死ぬんです。』
 また、情景で接続している箇所として、父母による一日のルーティーンのシーンの終わりの部分が挙げられる。
『あれこそ/こここそ わが家、わが星、今日も星は輝いている』
帰り道、遠くから見えてくる集合住宅の窓から漏れる明かりが、星のように輝いている。小さな光(それは「輝かしい」ものである)が見え、それを見上げるという情景でミクロとマクロをつないでいる。

 星/人の重ね合わせというコンセプトを除くとして、芝居のストーリーラインとしては、①ちーちゃんと家族との関係性、②ちーちゃんと月ちゃんとの関係性、③ちーちゃんと男子学生との関係性、の3本立てのそれぞれの関係性を描いている。やろうと思えば、どれか一つの関係性だけでも90分のドラマになるはずだが、それを3本もやっている。普通であれば要素を詰め込みすぎだと言われるだろうし、実際、詰め込みすぎたためにそれぞれの関係性が十分に描けていないという意見もあるだろうが、作品のメッセージとの関係で、複数の関係性を描く必要があったと私は考えている。(この点は内容面で後述する。)
 それぞれの関係性の描写に時間が割けない中でも、巧いと思った箇所はいくつもあった。例えば、ちーちゃんと家族との関係性で最も取り挙げられている二者はちーちゃんと姉だが、ちーちゃんがプレゼントを受け取るシーンの、「見てもいい?」母「だめ」→お礼を言った後は、母「いいよ」というやりとりは家庭の教え(ちーちゃんと母の関係)を短い時間できちんと描いている。

 芝居による物語が、上記の①②③の関係性の描写とそれをパッケージングする星/人のコンセプトであるとして、「わが星」には芝居(①②③のストーリーライン)とは直接関係しない「うた」や踊りが含まれている。「わが星」が特殊音楽劇と呼ばれる理由であろう、ラップ(リズムに合わせた詩の朗読)と群読の使用は、もちろん物語の解釈に影響を与えているが、ラップを含めた「うた」や踊り自体が独立して持つ意味についても考えるべきだろう。

 言葉の使い方については巧く、好ましい。言葉遊びについては挙げればきりがないが、「マグネット、ぐねっと曲がった」とかの単純な音遊びの箇所も、「光速/校則」とか「風吹くよ/風邪ひくよ」とかの、同音異義や一字・一音のずらしで重ね合わせた星/人を共に表現している意味のずらし方も、「おめでとう」「京」とかの群読におけるリズムのずらしについても、技巧的で、それ自体で耳に楽しい。
 一方で、歌・踊りを含めた原作の身体表現に関しては微妙な(質が高くない、または演出として最適でない)気がしている。ラップを除くと、唯一の歌の箇所であるエンディング(□□□(クチロロ)の「00:00:00」を歌う部分:動画1:27:13~1:28:54)の歌・踊りはそこまで魅力的ではなかった。また、引っ越してきたときの家具配置のシーン(動画34:06~35:35)についても、身体を舞台装置として使う手法は分かるが、ここの演出としては「うーん」と微妙な感じ。(ちゃぶ台という物は出てきてしまっているし、その「物」としての取扱いの差異が説明できていない。)
 ただ、身体についても良い箇所はあったことを補足しておく。望遠鏡を欲しがるちーちゃんの「ねえ、いいじゃん!」(動画23:05~)の箇所は身体の動きが良かった。他には、両親の一日のルーティーンのシーン(動画1:10:32~1:13:48)は身体の動きがあることがシーンにとって良く作用していた。(例えば、「はたらいてはたらいて」と父・母が同じ台詞を言うとき、している行為は異なっている。)
 言葉の使い方の巧さや、そのずらしのコンセプト解釈上の合致という良さに比較すると、歌や踊り、まさに脚本上に記述されていない部分については、私は高い評価を与えることができない。(歌や踊りは演劇という形式からすれば中核ではないが、「わが星」がとっている形式からすれば、重要な部分である。重要でないのならば削ればいいのだから。)

 星/人らの関係性を描く、芝居を構成する言葉の他に、なぜ「わが星」には、台詞とも言えないような一単語のみの言葉遊びや、うたうような言葉や、歌や踊りが含まれているのか。それは、作品のテーマに対して、芝居(ストーリー)によって発しているメッセージの他に、もう一つ、芝居以外の手法(遊び・うた・踊り)によって発している別のメッセージがあるからだと私は考える。

内容面(作品のメッセージ)に関して

 「わが星」は、死/滅亡(あるいは絶望)に対して私たちは何ができるか、というテーマを持っていると私は考える。

みんな死んじゃうんです。これだけはどうしようもないんです。
明日はもう来ないでしょ

 私達は、「人は、いつか死ぬ」ということを知っている。しかし、私達は死を経験できないし、練習できない。私達は死(に近づくこと)を恐れ、あるいは死に向けて絶望する。いつもはそれについて考えないでいる。
 私達の中で、「この星(地球)は、いつか滅ぶ」ということを知っている人がいるかもしれない。太陽が膨張して、どんどん大きくなった中に地球は取り込まれて、そうなれば、「(種としての)人は、いつか死ぬ」ということにもなる。
 いつか死亡/滅亡する私達が、その死に対して、恐怖や不安や無意味さやそういったことで絶望するとしたら、その絶望に対して私たちは何ができるのだろう。「わが星」のテーマであるこの問いは、私が私の死(あるいは絶望)に対して何ができるかということでもあるし、私が誰かの死(あるいは絶望)に対して何ができるかということでもある。私はその誰かを死から救うことはできない。そのことは彼/彼女/私にとって絶望であるかもしれない。その絶望を前に、救いはないのか。
  「わが星」という作品は、「祈り」と私が呼ぶものについての作品である。

『喜びしか知らぬ者から祈りは生まれません。生を呪う苦しみの子…… 君にしかできないことがあります。』

劇場版 メイドインアビス 深き魂の黎明」(2020)


 上記の、死/滅亡(あるいは絶望)に対して私たちは何ができるか、というテーマについて、まず、芝居(ストーリー)によって発しているメッセージについて述べる。
 「わが星」はそのストーリーにおいて、「相互に存在を確認する行為」による、救いの可能性を提示している。その「相互に存在を確認する行為」による救いの可能性について、①ちーちゃんと家族との関係性、②ちーちゃんと月ちゃんとの関係性、③ちーちゃんと男子学生との関係性、の3本立てのそれぞれの関係性において、別様の具体的な方法による救いを描いている。
 ①ちーちゃんと家族との関係性におけるラストシーン、すなわち太陽が近づいて焼けて死ぬ最期に、家族に向けてちーちゃんが言う台詞は「手、つないでもいい?」である。手をつなぐこと。その身体的接触は、相互に存在を確認する行為として、救いになりうるかもしれない。
 次に、②ちーちゃんと月ちゃんとの関係性は「友達」である(ちーちゃんが月ちゃんを姉へ紹介する場面で関係性に名前が付けられる)が、一緒に遊んだり、(長い間)時間・空間を共にすることは、相互に存在を確認する行為である。
 私は月ちゃんの手紙のシーンで最も心揺さぶられたので、その箇所について詳しく述べておきたい。その手紙は、実際は子どものときに書いてタイムカプセルに入れたまま焼けちゃった手紙なのだが、私にはまるで遺書のように感じた。その中で、ずっと言えなかった言葉として、月ちゃんがちーちゃんがいなかったらずっと孤独だっただろうこと、その孤独を晴らしてくれたことへの感謝を告白する箇所がある。

『ちーちゃん、あのとき声をかけてくれてありがとう
ちーちゃん、あのときアポロをくれてありがとう
あの日がなかったら、あたしきっとずっとひとりぼっちだった

https://youtu.be/Utk1wV0FPMc?t=4765

 私はこのとき、「ずっとひとりぼっち」であることをはたと想像し、絶望した。作中で、月ちゃんの家族は出てこない。

母「お母さんはいる?」 月「いません」
母「お父さんは?」 月「いません」
母「えっと、じゃあ誰か大人のひとはいる?」 月「いません」
母「誰もいないの?」 月「いません」

https://youtu.be/Utk1wV0FPMc?t=2171

ち「誰もいないの?」 月「うん」
ち「ずっと、」 月「ずっと」
ち「そうなんだ」

https://youtu.be/Utk1wV0FPMc?t=2233

 このちーちゃんと月ちゃんの初対面のシーンでの会話は、地球に生命があることと月に生命体がいないことを示唆し、その後の「二人貸す」発言と二人の宇宙飛行士の名前から、アポロ(宇宙シャトルとお菓子のダブルミーニング)へと接続している印象深いシーンだ。が、星としてではなく人としての月ちゃんが一人ぼっちであること(何らかの理由で、一緒に暮らす家族がずっといない)を想像すると、そして、それから死ぬまでずっと孤独であることを想像すると、その絶望(観測すらも為されることのない孤独)の深さと、それに対するちーちゃんの存在がどれだけ安堵・救いになったかに私の思いが及び、心揺れる。
 月ちゃんは、死ぬまでちーちゃんに言えなかっただろう。(月ちゃんの最期のシーンの台詞 月『…… ちーちゃん』ち『ん、なに?』月『なんでもない、』(動画49:08~)を参照。)「あなたがいなかったら、私はずっと一人ぼっちだった」という言葉を投げかけることは、それが確からしいものであればあるほど、その暗さ、重たさが増す。結果的には本人に届かなかった手紙であっても、そのことが言えるということが絶望の淵に今立っていないことの証左だと思うから、私は月ちゃんの手紙におけるその告白が、とても希望のある美しいものに思えた。

 最後に、③ちーちゃんと男子学生との関係性は、二つの点で重要である。まず、その関係性が名付けられていないという点において。このことは、①家族、また家族のいない場合の②友達、をさらに外れて、(家族も友達もいない場合の)③名前の無い、何か分からない関係性においても、救いが見出せるのではないかということを示唆している。月ちゃんにとってのちーちゃんが救いであったように、ちーちゃんにとって、男子学生が救いになるかもしれない。ちーちゃんにとって、男子学生は会ってから間もない知らない人であり、死の間際の短い時間だけ共にする人であるにもかかわらず、だ。
 そしてもう一つ重要な点は、そこで「相互に存在を確認する行為」として提示されている行為が、見ている/看取る(そして、そのことを両者が認識する)という非常につながりの弱く思える「相互に存在を確認する行為」であるという点だ。

「あたしが眠るまで見ててくれる?」
「いいよ」
「ありがとう」

https://youtu.be/Utk1wV0FPMc?t=5502

 誰かが見ててくれる/看取られることが本当に救いになるのかは私にはまだ判断がつかない。(そしておそらく、私が死ぬまで判断はつかないだろう。)
 以下はロバ氏の批評からの引用だが、死の間際が孤独ではないことは、それだけで私達の死に対する考え・感情を変容させるだろうか。

『僕はこんな空想をする。もしも、僕たちが―地球にいる全ての人間が、必ず、もう絶対の絶対の絶対に、死ぬときには誰かに看取ってもらえる、そういう約束の中で生きてるとしたら。それまでどんなに孤独に生きてきても、死ぬときには誰かが傍にいてくれるのだとしたら。それを確信しながら生きられるとしたら。僕たちにとって、死は異なるものになるんじゃないか、って。』

ロバ / 沖田 正誤「『わが星』感想―ユーモア,滅び,資本主義」

 これについての私の判断は保留するとして、ただ、安心して眠ることができるということを私は幸せ(peaceful)の要件にしてもいいとは思える。
 
また、私は、誰かの寝顔を見ている(誰かが眠っている空間にいて自分は起きている)というモチーフについて過去に何度も引っかかっている。(そしておそらく、「愛」や「運命の人」概念についての私の思想とも関連している。)


 話が逸れたが、「わが星」のテーマである「死/滅亡(あるいは絶望)に対して私たちは何ができるか」という問いに対して、ストーリーにおいては、次のように回答されている。誰かと(それは家族・友人・名もなき関係性である誰かでいい)、手をつないだり、同じ時間・空間を生きたり、見とる/看取ることを両者が認識したり、といった「相互に存在を確認する行為」が、その絶望の中の救いになるのではないか、と。
 ここで、救いの可能性がいくつもの方法にひらかれていることは重要である。もしこれが家族とだけの、あるいは男子とだけの話であったら、ある特定の関係性こそが救いであるといったような「家族」や「恋人/恋愛関係」至上主義に取り込まれてしまいかねないし、また、身体的接触(性行為を含む)や、一緒に暮らす/長い時を過ごすことこそが重要だといった既にある伝統的かつ保守的な言説に矮小化されてしまいかねない。そのような言説は全く誤っているとは私も思わないが、もはやそのような言説だけでは現代を生きる私たち皆は救われない。「わが星」はもっと広くを視野に入れているからこそ、芝居を3本立てにしている。


 そして、死/滅亡(あるいは絶望)に対して私たちは何ができるか、というテーマについての「わが星」のもう一つのアンサーについても、言及しなければならない。遊び・うた・踊り(芝居以外の手法)によって発している別のメッセージは、ユーモアや、振る舞いとしての祈りが、絶望に対する慰めになるのではないか、ということだ。

 最期を迎える家族が食卓を囲むシーン(動画1:14:40~)では、序盤で「いただきます」の台詞だった箇所が、「おやすみなさい」に変わっている。眠りが死の喩えとして用いられる(「あたしが眠ったら終わっちゃうんでしょ」動画1:07:27~)ため、手を合わせて「おやすみなさい」と言うことは、死を前にした儀式・祈りの所作としての合掌を思わせる。
 また、家族にとってのラストシーンで、ちーちゃんが「ねえ、どうやって燃えるの?」と最期についての質問をする箇所(動画1:20:54~)では、「熱くなる?」「があるみたい?」というちーちゃんに母は「があるみたい」(父「ずっと夏」祖母「いつまでも夏です」)と答え、ここでもずらしが行われている。
 このとき、「わが星」という作品全体を通して行われてきた言葉遊びやずらしが、(少なくともこのシーンでは)ラップの押韻という手法からくるものでもなく、星/人の重ね合わせからくるものでもなく、登場人物自身にとって必要な、あるいはどうしてか”してしまう”ユーモアとして描かれていると解釈できる。

 死とユーモアとの関係について、特に終末期医療(ターミナルケア)の現場では、ユーモアに関する言説が見られる。
 村上靖彦「ケアとは何か」(2021)から、以下引用する。

『死に直面する当事者が取る純粋な行為のなかには、ユーモアという形を取ることもある。』p177

『ユーモアは、状況へと介入して変化を引き起こす行為ではない。家庭と仲違いして独居する男性が、近づいた死に対してぎりぎり絶望せずに生を肯定する行為である。
 この男性は、はじめは訪問入浴を拒んでいた。それがきっかけで山下さんに訪問看護の依頼が来たのだが、そんなときにもユーモアが発揮される』p179
『ご本人に聞くと、もうね「私が入りたいのは風呂おけじゃなくて棺おけです」っておっしゃったと。』(「現象学でよみとく専門看護師のコンピテンシー」p102を原文内で引用)

『ユーモアは言葉による状況への応答の技法のひとつだ。』
『ユーモアは閉塞感のある現状とは異なる新しい世界を開く。現実には何も変化していなくとも、ユーモアは聴き手とのあいだに別の世界を開くのだ。ここでは死がオルタナティブな意味をまとって、新しい世界として描かれる。』p179

村上靖彦「ケアとは何か」(2021)中央公論新社

 村上はここから、J・L・オースティンの言語行為論を引いて、ユーモアを行為遂行的(パフォーマティブ)な言葉であるとしている。(『単に事物を描写するのでなく、発することがそのまま行為となる言葉』p180)
 ユーモアがもたらす効果は、『状況へと介入して変化を引き起こす』ことで絶望的な問題が解決されることではなく、『現実には何も変化していなくとも、』別の新しい世界をつくり出すことである。

 私達は、「こうなりたい」という理想の変化対象を思い抱きながら、しかし現実には自身は「そうではない」という状態とが重なった自分を生きていることがある。「かっこつける」みたいな、舞台上に限らずポーズを取ることを含む広義の「演じること」や、手品師の行うような狭義の「パフォーマンス」には、〈私〉が”私でありながら私でなくなる”という点に可能性を秘めているということを私は考えたことがある。(演じるとき、私は私でない誰かになっているのであり、手品師は世界の法則ごと、自身を魔術師に変えてしまう。)

『パフォーマンスは、〈私〉が私でありながら(同一性を維持したまま)私でない何かになることのできる場である。(オン/オフといった言葉や、「演じる」ことと関連して。演劇のように何か役をやるのでなくても、私のままで場に上がるとしても。)
 したがって、そこでは〈私〉がゆらぎ、変化の可能性を生む。変化して違うものになっていくのも(別様がありうるという意味で)「豊かさ」と関係する。』

じん「[ジャグリング全国懇談会]についてのメモ書き」(2020)

 しかし、今指摘したい「わが星」の中にあるユーモア(という言語行為)は、(仮面ライダーが「変身!」と言うことにより変身するような)変身の宣言のような、または命名のような、自分自身が理想状態になることを企図するような言葉ではなく、どちらかと言えばより後ろ向きな、別の効果を有しているように思う。
 現実に自身が「こうでしかいられない」という状態と、しかし「そうでありたくない/そうなりたくない」という思いを抱き、受け入れられないでいる状態とが重なった自分を生きているとき、あるいは、理想さえ思い浮かばない現実の「この自分しかない」というとき、ユーモアは、理想状態にない現実(自分自身)をずらすことで、絶望から適切に目を逸らしたり、新しい別の自分の可能性を切り開き存在させるという効果があるのではないか。そしてそれは前向きな企図というよりも、そうしないと居られないということ、”してしまう”ことが関係しているように思う。

【参考?】ユーモアの例
人生における重要な選択に際して、「岐路&スティッチ」と言う意味

(※「岐路&スティッチ」の出典・初出はhttps://twitter.com/Tsulion_murisaf/status/1134729950286581763?)

 

 また、うたや踊りといった振る舞いも、絶望に対して問題を解決するような変化を起こす行為ではない。その儀式的側面(意味はないがそう振る舞うしかできない、それが「祈り」と私が呼ぶ行為となる)については以下のツイートを参照。

 「わが星」で用いられる、うたや踊りについても、上述のユーモアのような効果・動機があると考える。つまり、その振る舞いをしている間は絶望については考えないでいられるというような、適切に目を逸らす振る舞いであり、うたい踊る者はそうせずにはいられない状態である、という解釈ができる。
 ユーモアや、振る舞いとしての祈りが、絶望に対する慰めになるのではないかという「わが星」のもう一つのメッセージは、(まさに言語行為のパフォーマティブさではないが、)芝居の言葉で記述するのではなく、そのままの行為として提示されることが最も演出として適切だろう。

 「わが星」はそのストーリーにおいて、「相互に存在を確認する行為」による救いの可能性を提示している。また、ストーリーを物語ることではなく振る舞いとしての祈りをそのまま置くことで、絶望に対して人がそう振る舞ってしまう様を見せている。
 死、あるいは絶望に対する希望として「わが星」が提示する救いと慰めという二つの別様の回答が、芝居とそれに留まらないうた・踊りなどの身体表現というそれぞれの表現手法によってなされているということが「わが星」の形式面と内容面をつなぎ、その構造を必然的に、強固にしている。


内容面の補足(内容については全ては書ききれない)

内容面については、散りばめられている要素が多すぎて拾いきれないが、ここでは二点だけ指摘しておきたい。

時代背景や社会情勢による脚本の読みの変化

 2022年に上演されることで、どうしても新型コロナウイルスの流行を経た解釈になってしまう。
 例えば、「細菌ウイルス感染拡大」が「最近ウイルス感染拡大」に聞こえる。「ウイルスで死ぬ」という語が現実味を帯びる。郵便局のとこのおじいさんから祖母にがんが転移するという箇所も、原作の動画(2015年)では観客の笑い声が入っているが、今では他人から病気が移るということに引っかかり、笑い所にはならないと思う。
 ある時代に笑えたものが、別の時代では笑えないということはあり、作品の悪い点と言うわけではないのだが、読み方が時代や社会情勢の変化により変わるということは指摘しておきたい点だ。

・地球滅亡の環境問題としての問題提起

ち「引っ越そうよ、どっか、新しいとこに引っ越せばいいじゃん」
母「どこに?」
ち「……そっか、」
母「他に行くところなんてないでしょ、」

https://youtu.be/Utk1wV0FPMc?t=4835

 この箇所は痛烈な環境問題提起でもある。私達はこの星から引っ越すことはできない。「わが星」という共通の土地(共通の利害関係)に立つ者同士であるこそ、想像できないほどに異なった他者が自分と同じような(最後に至っては協同すべき)存在だと考えられる。愛すべきは「わが家」でもなく「わが町」でもなく「わが国」すらも超えた「わが星」なのだ。


3.本作に特有な部分の評価

原作との比較、改変部分

 私が買ったパンフレットに演出の宮田氏の文が載っているが、それによると原作から脚本結構改変しているようだ。

『 私が思うに、ジャグリングアレンジはジャグリングが作品に対して対等であるべきで、作品に対して対等であるとは、例えば台詞を変更させてくれないか、このシーンを追加・削除できないか、何ならジャグリングが入り込みやすいように根本的にこういう題材に変更してみないかなどを、創作過程でジャグリング側から要求できるようなイメージです。それが無いなら、それはあくまでジャグリングを一部取り入れただけの”演劇の”舞台であり、”ジャグリングの”舞台にならないと思うのです。実際、私達の『わが星』では脚色を行っており、特に日常会話のような台詞を大きく削りました。』

ジャグリング・ユニット・フラトレス第6回公演「わが星」パンフレットより

 具体的にどの部分が削られたのか定かではないが、私が原作脚本との変更箇所に関して気づいたのは以下の通りである。

オリジナル楽曲の部分
 エンディングの歌・踊り部分は、原作では□□□(クチロロ)の「00:00:00」という曲が、本作ではオリジナル楽曲「Hello」が用いられており、踊りについても当然異なっていた。既に述べたように、私はこの箇所をきちんと受け取れなかったと思うので、評価を控える。

脚本上の変更箇所(意図的な台詞の削除)
 私の記憶違いでなければ、男子学生による性的な語を含む台詞の削除があった。(先生『あれは巨星でした、』男子『巨乳』先生『巨星』の所など複数箇所。)
 演出の判断で意図的に削除するのは別に構わない。私の憶測では、センシティブな単語を避けるため、あるいは(特に最近は演劇界の)セクシャルハラスメント問題の文脈を汲んでのことかと思う。しかし一方で、ちーちゃんと月ちゃんが喧嘩する箇所では「死ねば」という強い単語の台詞はそのまま使っていた。ここは活かす判断をしたんだな、と思った。

演出上の変更箇所
 演出に関して言えば、ジャグリング/ジャグリング道具を取り入れる関係でほとんど変わっていた。
 本作の観劇中に私が気になったのは、男子学生と先生が時間を何度も繰り返すシーンが私にとって非常に長く感じられたということだった。原作と変更があるのかと思ったが、原作の動画を見るに台詞的には変更はなさそうだ。(原作では繰り返す度に男子学生の台詞を言う役者が太陽系の星のように一列に並ぶという手法をとっていて、演出は異なっていたが。)
同じ繰り返しで単純に私が飽きたのだろうか。あるいは私の観劇経験が久々過ぎて椅子に長時間座っていられなくなったか。


「光」について

 私が本作において重要と考えるのは、本作の演出が原作と変更になることにより、「わが星」にどのような解釈の新しさを与えたのか、という点である。その点はフラトレスが「わが星」をなぜやるのかという根本にも関わってくる。
 私が本作で特筆したいのが、光の扱いについてである。

 本作における「光」の位置付けを確認しよう。
 まず、星(ちーちゃん達自身)が光っているという点(特に男子学生にとっての望遠鏡の先の光がちーちゃんだということ)、そして恒星の最期についての先生の説明(『静かに光を失い、眼を閉じるようにゆっくりと世界は闇に包まれます。』)を踏まえると、光は星にとっての命・存在の徴(しるし)ともいうことができる。
 月ちゃんの最後のシーン(原作動画1:17:36~)において、原作では、月ちゃんはミラーボールを抱えて出てくる(ミラーボールは太陽の光を反射することによって輝く月の隠喩である)ところ、本作では月ちゃんはライトアップボールがいくつも入った帽子を持って出てくる。そのこと自体の解釈は置いておくとして(誰かの反射鏡ではなく月ちゃん自身が光源であるという解釈も可能だが)、演出面で言えば、ここの光はまるで瞼の閉じるような仕方での暗転で終わる。それは月ちゃんの最期を表しているようでもある。

 また、父母による一日のルーティーンのシーン(『あれこそ/こここそ わが家、わが星、今日も星は輝いている』)でも、わが家の灯りが点いていて、その光が彼らにとって重要なものであることを示している。
 光が存在のしるしだというのは、星に限らない。現実世界の人間である私達は、灯りが点いていたらそれは誰かが居るということだと思うだろう。夜道を前から光が向かってくれば対向車/対向者だろうし、灯りが点いている家は在宅だろう。街の夜景は、その視覚的visualな美しさと同時に、その光の一つ一つが生活者/労働者の存在の証であることがその価値を高めていると思う。

 ちーちゃんもまた、団地の灯りを『なんか昔からぼーっと見ちゃうんだよね』(原作動画45:20~)と言っている。
 そして、光は、ちーちゃんがタイムカプセルに入れるものでもある。(原作動画42:50~『ち「今の、今だけの光を入れとくの」』)
 例えば、この夕暮れ、あの街灯、蛍光灯の光、ビルの灯り、春の日差し、電球の光、夏の直射日光、秋の木漏れ日、夜中のテレビ、月光、白日、朝焼け、初日の出、冬の白いひかり、朝のひかり、街のひかり、蛍の光。

 このように「わが星」では、光は命や存在のしるしとして、そして”なんだか見ちゃう”対象として位置付けられている。
 
そして本作でフラトレスは、「光」を演出上ライトアップボールにより実際に用意している。私達が舞台上に実際に光を見ることで、ストーリーの中のちーちゃん達がこのようにみているのだという疑似的な共通体験(体験の共有?)をする。(「物語の補強」。私達観客がそのライトアップボールの光に見とれ・眺めるとき、私達はちーちゃんにとっての何だか見ちゃう光を考えずにはいられない。)
 フラトレスは、ここでも、芝居と、それに留まらないうた・踊りなどの身体表現というそれぞれの表現手法によって、私達観客自身に「光」を意味付けている。

 「光を見る」というのは、最も素朴な形式の祈りの行為なのかもしれない。これは、私が本作フラトレスの演出の「わが星」を観た直後ではなく、ずっと後に発見できたことである。
 太陽や火といった光源・熱源については、素朴なエネルギーへの畏れからか、生活との適度な近さからか、人類史上、信仰対象となっている。キャンプファイヤーを見つめていると心があらわれるような気がしてくるのは経験からしても確かだ。また、人魂・火の玉の例から、魂のかたちは光るかたまりであるとも考えうる。

 私達観客が舞台上の実際の光を見つめるということについて考えることの一つには、男子学生が光る星であるちーちゃんを最期まで見ていたことと重ねて、(それが魂であれ、生活/労働の証であれ)その見られているしるし/光る存在が救われるという意味でそれが祈りの行為であるということだ。
(※「わが星」において、観客自身が太陽系を取り巻く星であるという解釈をとることで、ちーちゃんが居なくなった後の男子学生をも見ている存在がいると言える(「神は誰に祈るのか」/男子学生の最期を誰が見ているのか、という問いにメタ的な答えを用意している)のだが、その解釈の参照点にもなる。)
 そしてもう一つは、そのしるし/光る存在をなんだか見てしまうということそれ自体が私たち自身にとって祈りというか、慰めというか、重要なことなのではないかということを考える。(それは「重要→だから→する」のではなく、「してしまう←のだから←重要なのかも」という逆の理屈なのだが。してしまう行為の効果や有用性は関係なく、自身が何だかしてしまうということから自身の信仰の形成がはじまる気が私はしている。)

 このことを私は考えられただけで、私はフラトレスが本作を(原作と異なった演出法をとって)上演した価値はあったと思う。

 以上で私のフラトレス「わが星」評としたい。
 もっと掘り下げられる部分もあるのだろうが、(わが星の「ずらし」の手法とサーカスと「異化」との関連について掘り下げたり、ジャグリングの文脈で引越しシーンや父母の一日のシーンを検討したり。)それはまた誰かに任せるとして、最後に、私の好む作家である伊坂幸太郎から引用して締める。

『人間というのは、眩しい時と笑う時に、似た表情になるんだな』

伊坂幸太郎「死神の精度」(2008)文藝春秋、p336-337

以上。じんでした。
Twitter→(@jin00_Seiron


参考文献・参照資料

●劇団ままごとによる原作
私が見た原作の動画。~2022/10/19までの期間限定・無料公開。

DVDは現在在庫がなく、再製造予定もないため手に入れることは困難だが、観劇三昧、シアターコンプレックス、U-NEXT、といった配信サービスの月額サブスクであれば視聴できる。詳細は以下へ。

また、戯曲も全文公開されている。

https://mamagoto.org/mgwp/wp-content/uploads/2020/12/drama10-wagahoshi.pdf

また、オープニングの10分間ほどの音声のみも公開されている。

●「わが星」批評

・西川泰功 「現在にふれるために未来へ疾走せよ」に乗れないのはなぜか? ~ままごと『わが星』を批判する~
https://www.wonderlands.jp/archives/17901/
・片山幹生 『わが星』、ことばと音によるノスタルジア
https://www.wonderlands.jp/archives/17905/
・堀切和雅 観られなかった舞台を懐かしむ
https://www.wonderlands.jp/archives/17973/
・佐藤一成 劇評講座・ままごと「わが星」
https://simokitazawa.hatenadiary.com/entry/10011211/p1
・ロバ / 沖田 正誤 『わが星』感想―ユーモア,滅び,資本主義https://note.com/donkeys__ears/n/n7192e771b266
・中西理 連載)平成の舞台芸術回想録(4)ままごと「わが星」
https://simokitazawa.hatenablog.com/entry/2020/04/13/000000



おまけ

ワークインプログレス公演感想

https://note.com/preview/n69fda2efb26c?prev_access_key=798952217fca03fd2d2ff65e4321cd12

 TwitterのDMで声をかけてくれた宮田氏にはこの場を借りて感謝したい。私が久々に(生での)観劇するかと思えたのも、直々にお声がけがあったからだった。
 ワークインプログレス公演では、旗揚げ公演と同じような感想を言っていて、要は「なにこれ?私のいちゃもんを吹っ飛ばすほどに面白くはないぞ」というようなことなのだが、本公演では(観劇直後は見えていなかったが)フラトレスの視点のようなものもちょっと見えて、及第点のような評価に落ち着いている。


●じんのメモ(自分用)
https://twitter.com/jugglingFratres/status/1527270686594461698
・公式の感想ラジオ
https://twitter.com/jugglingFratres/status/1534490429562900481
・公演の内の一回だけ、アフタートークで池田洋介氏が登壇した。(私が見た回ではなかったので内容不明)
https://twitter.com/ikeikey/status/1528187605279711232
・言語行為論
http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/2K/ke_speech_act.html
・ユーモア
https://jnapcdc.com/LA/EOL/eol_0102.html
https://www.wlpm.or.jp/inokoto/2016/04/26/%E6%81%B5%E3%81%BF%E3%83%BB%E6%94%AF%E3%81%88%E3%81%AE%E5%8F%8C%E6%96%B9%E5%90%91%E6%80%A7-%E7%AC%AC9%E5%9B%9E-%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%82%A2%E3%81%AE%E3%82%84%E3%82%8A%E5%8F%96%E3%82%8A/
・「変身」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E8%BA%AB_(%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%BC)
・なんだか見ちゃう光についてメモ
https://twitter.com/jin00_Seiron/status/1566196147915345920
https://twitter.com/tokyosaunalover/status/1418569011592273926
・火に関する文化の一例として、キャンプファイヤー(ファイヤートーチ)
https://twitter.com/jin00_Seiron/status/1223477884804681728
・途中で書いている「パフォーマンス」の意義(私であり/私ではない存在としてある)に関連して、手品師の例を考える
https://twitter.com/jin00_Seiron/status/1480033281139945476
・上演中の写真撮影は禁止(開演前は可)だが、公式から供給があった画像についてはSNS利用が可能とされた。
https://twitter.com/jugglingFratres/status/1527622928984027136
https://twitter.com/ju_desuca/status/1530911450792923136
https://twitter.com/ju_desuca/status/1530172779903197184


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