Event, Community, Platform

イベント、コミュニティー、プラットフォーム(単にそれっぽい題)

ジャグラーと言葉

最近、サーカスと言葉マジックと言葉、に触れて、再度アーティストと言葉、ジャグラーと言葉というのを考える。

上のツイートを見て思ったことを適当に書く。

歴史と記憶の発掘

まず、ジャグラーが「語らうに特化した企画」は過去何があったかな、と思う。

門仲トークライブ」という僕の知らない単語が挙げられていたので検索すると、2011年12月28日のイベントのログとしてustのチャンネルが残っていた。fb

しんのすけ氏は同時期(2011-2012)に「門仲ジャグリングナイト(もんじゃナイト)」も行っていて、また、2013-2018に年一回の「両国パフォーマンス学会」も開いている。
http://www.high-beam.info/shinnosuke/meetingより
『昨今、ジャグリング、サーカス、あるいは大道芸に対して、実践のみならず、様々な見地から論考を進める方が増えて来ているように感じます。「両国パフォーマンス学会」では、その道の専門家から専門家を志す方までが、互いに日頃の研究成果を発表し、交流する場を設けることを趣旨とします。』
また、http://www.high-beam.info/shinnosuke/archives/492にも動機の記述。
(ちなみに「サーカス学会」の設立総会が2019年6月29日にあるらしく、行きたい(行けない)。)
学会という形のイベントなので、研究発表という形式の特殊な語りではあるが、パフォーマンスの様々な分野からの人たちの個々の知見の発表や、課題設定に対する研究報告が見られる。

Ustreamというところでは、2012年2月12日にも座談会(パフォーマンス座談会?)、とそのUst配信があったようだ(Togetterにログ)。Togetterには安田尚央氏がまとめたvol.7までのログが、また2013年5月28日にvol.9の存在の記録(ツイートUst)が。
2013年6月29日に第1回両国パフォーマンス学会なので、時系列的にはそんな感じ。

他に、僕が参加したことのあるものだと、
2015年1月24日に「第 1 回 ジャグリングと舞台の座談会」があって、2015年3月21日に「第2回」(「ジャグトーク」の名称も)、2015年9月22,23日の「大阪秋のジャグリングデー」でも座談会が企画された。
2018年4月22日には神戸(六甲)で「ジャグリング座談会@IKUukaN」があったし、
→http://juggling-gohcho.hateblo.jp/entry/2018/04/26/073000
2019年3月2日にはclusterを利用したVRイベント会場で、ジャグリング座談会「これからのジャグリングの話」があった。
https://note.mu/nishinojunji/n/nc8d0e500a1c0

イベント

少し話を変えて。
ジャグラーが集まるイベントといえば、大きなものは、JJFと、WJDであろう。

JJFは1999- 年に一回(大体10月1週目)行われるジャグラーのためのフェスで、日本各地から何百人のジャグラーが集う。(cf.1999初回参加者約40人、2018では700~800人(要出典))
古くから、年に一回会うジャグリング友達と年に一回会うイベントとしてJJFは機能していたかもしれない。
また、JJFでは交流会やワークショップ(WS)としてのトークセッションが企画されていることもある。(JJF2018『ジャグリングと「関わって」いく』
他に、JJFにまつわるジャグラーの語りとして、JJF2014,2015のCS参加者等へのインタビュー動画「月刊JJF」がある。

WJDは、World Juggling Dayの略であり、IJAが決めた言わば年に一度の「ジャグリングの日」なのだ(参照)が、この記念日に合わせて各地でジャグリングイベントが行われる。
大阪(2009-2019)、東北(2012-2018)、四国(香川(?-2014,2015-?) 高知(2019))北海道(2019)、
大阪に絞って話をすると、JJF同様にWSや座談会で話をする/聞く企画がある。

ジャグリングのイベントがあれば、そこで集うジャグラーは話をするだろう。
それは例えば、その技を教えてください!といった話や、最近どうしてるの?といった私的な会話や、新しい技や良いルーチンの作り方の話。
もっとも、それは古くは「単なる趣味を同じくする友達との趣味についての会話」であったろうし、座談会として立てられた今も、「ジャグリングを“する”イベントに付随したジャグリングについて“話す”企画コーナー」といった位置づけにある。
ジャグラーはまず、ジャグリングを“する”生き物なのだということを思う。



対して、語りに特化した座談会イベントの特徴は、一つは、ジャグリングに関する話をするというだけで個別のイベントを成していること。つまりジャグリングを“する”ことなしにジャグラーが集まっているイベントだということだ。
二つ目は、そこでなされる話の内容が、ジャグリングそのものについての話ではないということ。
僕が前書いたnote(これとかこれとか)から引いてくると、ジャグリングに関する話は、およそ
①ジャグリング/運動そのものについての話
②ジャグリングとの関係性についての話
③ジャグリングの評価軸についての話
に分けられる。
JJFやWJDで話される事の多くは、①だろう。どんな道具がある、どんな技がある、どんなジャグラーがいる(その人独自のstyleがある)、どんな作品(ルーチン)がある...、ジャグリング技術の伝授/習得、練習方法の教授、etc.
しかし、上記の個別の座談会イベントでは、それ以外のテーマの話がされることが多い。
これは一つ目の特徴とあわせて考えると当然といえば当然で、もしジャグリング運動そのものについての話をするのであれば、話をすると同時に身体を動かしてジャグリングもする方が話の内容の伝達がしやすい。私たちは身体の部位や、動き、身体感覚についての複雑で膨大な情報を表す「言葉」を持たないが故に、私たちがジャグリングをしないのであれば、ジャグリング運動そのものについての話もしない、というわけだ。

具体的考察

ジャグラーが「語らうに特化した」イベントを開催するにあたっての具体的問題を考える。
それが「ジャグリングをすること抜きのイベント」という意味では、ジャグリング/運動そのものについての話がされないイベントになりがちで、それは「ジャグラーはまず、ジャグリングを“する”生き物なのだ」という立場からすれば、需要の少ない、集客力が心許無いイベントとなるだろう。(実際的な問題として、payしない)

もちろん需要が全くないわけではなく、ジャグリングにまつわる様々な語りをしたい/聞きたいという需要は少なからずある。しかし、僕の個人的な経験からすれば、ジャグリングに関する話をするイベントは、テーマを狭く絞るか、司会進行がめちゃめちゃ上手いかでないと、話がとっちらかる気がしている。というのも、「ジャグリングに関する話」って、めっちゃくちゃ幅広くて、「ジャグリングと〈私〉との関係の話」に絞っても〈私〉の立場が多様である(性別、学生/社会人、趣味(アマ/仕事(プロ、)故にまだ幅広いので。
(A)議題設定を狭くして、一つのテーマにのって話をdriveさせるか、
または、(B)それぞれの個々の語りを集積する(それぞれに話し、それぞれに聞く)か、しかないと思う。

(A)
狭い議題設定(課題か問いの形でのテーマ一つ)をして、参加者内で議論したり意見を出しあったりして話をdriveさせる。例えば、「ジャグリングを普及させるにはどうするのが良いか」、「良いパフォーマンスを作るにはどうしたら良いか」、
または、WSのように「勉強会」といった形で一つのテーマを扱う。
参加者は、狭い議題の内容自体に関心があるからこそイベントに参加する。
設定する議題が、多くの者に共通の課題、あるいは多くの者が関心のあるテーマでなければ、参加者は多くなく、イベントがpayしないという問題が残る。

(B)
参加者多数人のそれぞれの語りを集積するだけで、イベントとして成り立つか?
・求心力のある人をゲストスピーカーとして、その人に話してもらう(登壇者が発信して、参加者は主に聞くだけ)
 ←参加者それぞれの語りの集積ではない。参加者がゲストに関心がある必要がある。
・学会的な形式 (それぞれがそれぞれの語りをする、それを聞く、ということに違和感のない形式としての学会。発表という形での語り)
 ←ある学会の参加者は同様の(ある分野の)問題意識を共有する、同様の関心を持つ者であるという前提。

(B)のそれぞれの語りを集積する、という形のイベントでは、参加者はなぜイベントに参加するのだろうか?
集まって、それぞれがそれぞれに話をして、話を聞いて、帰っていく。また集まって、それぞれがそれぞれの話をして、それを聞いて、帰っていく。
この(B)の形のイベントって、トークイベントでなくてむしろコミュニティーの話じゃないか??
参加者はそこで話される内容自体ではなく、「語る、それを聞く」ということ自体を目的として集まるか、または、何を目的ともしないで集まる(古くからのJJFやWJDのように集まったから何気なく話すというもの)。
集まって喋って帰る、というのがトークイベントとして成り立たないのなら、イベントという場ではなく、コミュニティーとして、つまり単に集いによって語りの場として存在させるという方針がある。

JJFやWJDといったイベントは、その求心力、歴史によってイベントに対するコミュニティーができている。「一年に一度そのイベントで会う人達」みたいなゆるいつながりがある。そのようなつながりは語りの場としても機能していたし、今も機能しているだろう。交流でも飲み会でも想起してもらえばいい。
ただ、それに留まらない、というかその供給に適してない需要というのがある。ジャグリングとの関わり方が多様化した現在、ジャグリングをすることなしにジャグリングについて語るということの需要がある。『「ジャグラーの場」が語りの場としても機能する』のではなく、『「ジャグラーの語りの場」が存在する』ことを必要としている。
ジャグリングを見る/見せることについての場として、ストリートや(大道芸)、舞台/劇場や(公演)、さらに競技性が付与すれば体育館や(大会)、そういった「ジャグラーの場」があるように、ジャグリングを語る/聞くことについての場として、何かが存在できないのか。

コミュニティー(「ジャグラーの語りの場」)

先ほどさらっと『ストリートや(大道芸)、舞台/劇場や(公演)、さらに競技性が付与すれば体育館や(大会)、』と書いたが、ジャグリングがストリートから抜け出すまで(パフォーマンスの場が大道芸から公演まで広がるまで)、または営業的パフォーマンスから抜け出すまでの道のりについては平坦なものではなく、それぞれの歴史の生き証人が詳しいことだろう。(古くはそれこそしんのすけ氏らパフォーマー、最近では各地方の学生大会の運営母体に関わる大学生/高校生とか)
日本には外国にいう「スクエア」的な、街の「広場」がないという話でもあるのだが、ジャグラーが存在できる「場」ってどこよ?という話が古くからあったと思う。
ジャグラーの語りの場の誕生についても同様の道のりを辿るのだとは思うが、語りについてのイベントからコミュニティーまで、少し思いを巡らせてみたい。

語りの場の意義ってなんだ?なぜ人は集まるのだ?といえば、一つには、「価値ある情報がやり取りされる場だから」「価値ある情報にアクセスできるから」という理由がある。コミュニケーションにおいて情報交換されるその情報が価値あるものだから、と。
これは例をあげるなら、(A)でみた語りの内容自体に価値があるから人が集まる、という仕組みである。

もう一つの語りの場の意義は、「コミュニケーションそれ自体に価値があるから」という理由があるが、情報交換の交換自体に価値があるという主張はあまりにも弱い(と僕が思う)主張なので今回はこれを採らず、
「ジャグラー同士の情報交換では、内容を指定しなくても自分が価値があると考える情報にヒットしやすい」と(A)に寄せるか、「情報そのものでなくても、そこでの人との出会い、そこから生じる利益/価値がある」と考える。

前者、「ジャグラー同士の情報交換では、内容を指定しなくても自分が価値があると考える情報にヒットしやすい」というのは、参加者を限定することで情報にも一定の限定がかかるという仕組みを利用する。女子会でも男子会(cf.)でもいいが、参加者が一定のカテゴリにまとまっていると、同様の問題意識や価値観を持っていることも多く、価値ある情報が何かというのが明確になりやすいし、内容をいちいち指定しなくとも参加者が価値ある情報を得て帰る可能性が高くなる(参加者はまた参加したいと思うだろうから、場の存続につながる)。
あえてカテゴリ分けすることによって参加者を限定することの問題は、分断が起こるという(思想的)問題と、当然想定される参加者が少なくなるという(実際的)問題である。
ジャグリング界隈がマイノリティーである(異論は認める)のに、さらにその中で分断が起こると、個として疎外される者が出て来うるという分断の問題は、現代のジャグリング界隈の拡大傾向を考えると、又は界隈の中でも多様化が進み、単に「ジャグラー」という限定では情報が有効に限定されないという現状を考えると、問題にはならないのかもしれない。
すると、実際上の参加者数の担保の問題もそれほど深刻にはならないのかもしれない。

後者、「情報そのものでなくても、そこでの人との出会い、そこから生じる利益/価値がある」ということについて考えよう。

『ベルリンのカフェ 黄金の一九二〇年代』p10より
『芸術と精神的生産のための伝統的な創造・討論・取引の場(劇場、アトリエ、画廊、出版社、編集部)と並んで、いまや、それ以上の意義を獲得していったのは芸術家カフェだった。彼らは、新しいプロジェクトについて議論し、そしてなによりも「売りこむ」ために、ここで落ちあった。』

カフェーが(1920sのベルリンで)精神的生産物の市場でもあったということは興味深い。
カフェー、サロン、カバレット(キャバレー)とジャグリングが無関係のものではなかったという話も興味深いが詳細へは立ち入らないとして、(例えば『サーカス 起源・発展・展望』(訳:桑野隆)には「サロン・ジャグラー」の記述。1880年代のカフェ・シャンタンcafe chantantとヴァリエテvarieteの発達がもたらした典型的な産物とされている。)
ジャグラー同士が出会う場であることで、例えば新しい創作プロジェクトや作品のアイデアが生まれたり、ジャグラーとそのパトロン(具体的に言えないので「ジャグラーの創作物に対価を払う人」という意味でパトロンと言っておく)が出会う場であることで、ジャグラーが金銭的利益を得る場にもなる。
そこまで理想的な場でなくても、単に情報自体に価値を置くのではなく、情報以外の部分で、どのように価値ある場にするかを考えるというのは一つの戦略である。その場から生じるコミュニティーで精神的創造がなされる、または金銭的取引がなされる、そういった生産的価値と場が紐付けられると良いのかもしれない。

もっとも、これはJJFやWJDと何が違うのかという話にもなり、その戦略でどれほど「語りの場」となるのかは不明、その他物質的環境的側面も要因として考えるべきである。(例えば、広くないスペースで、天井が高くなく、椅子が多く置いてあったらいくらジャグラーでもまず座るだろ、物を投げ出さないだろう。)
ジャグリング関連での具体例として、「ジャグリングカフェ 和み屋」、「IKUukaN」、「フラトレス・タイム」、「ジャグリングマーケット」(ジャグリングマーケット2019に参加するよ)、
サロンジャグラーに再度回帰するのではなく、僕が今話しているのはジャグラー's サロンなのだが、コミュニティーを考えるとき、その閉鎖性と開放性のバランス(新規参入者や部外者をどのくらい入れるか)というのは重要な点だと思う。

消費的情報交換のようにみえるコミュニケーションの価値

ここで、(A)の価値ある情報をやりとりしたり、また、創造、取引といった生産的価値を生み出す生産的な情報交換の話とは対照的な、消費的な情報交換ともいえるものを考えておく。
何も生み出さないコミュニケーション、いわゆる雑談は、交換自体に価値があるという方向で考えることもできるが、異なる側面を考えてみたい。
それは、「好み」について語ることの可能性の話だ。
自分の好きなもの・ことについて話したいという欲求は一般的なものにように思う。「オタク語り」や「推し」概念に寄り過ぎている気がしなくもないが、本質的には一般化できると思う。

参照
「私たちは他者なので、本質的には分かり合えない」という価値観があり、これを僕は基本的に持っているが、故に「共有」や「共感」という状態を欲しがる。
個人〈私〉と個人〈あなた〉は10割-10割共有できるわけではないが、自分の中で持ってる価値観の内の一部分だけ共有できる感じ、
自分の中にしかない概念を共有できること、
「この感覚、自分だけのものだな」って思っていた概念を誰かと共有できると、その瞬間にめちゃくちゃ感動する =「エモい」?
細いつながりだが、自分のものだけだと思えるつながり、

話がずれたが、好みについて語ることの可能性は、自分だけの「好き」だと思っていたもの、こと、感覚、が、他の誰かも理解でき共感できる「好き」であり、ひいては一般的な「良さ」でもあることを発見させてくれるということだ。「好み」について語ることは、新しい情報価値(「良さ」)を生み出すことにもつながるのではないか、ということが考えられる。

これは、僕の『ピンクの猫』の活動とも関連する。

自分の「好み」を(虚空に向かってではなく)他者に向かって語ることのできるようなコミュニティーであること、
「ジャグラーの語りの場」の可能性の一端がここにも見える。

この点から、Twitterというものがなぜジャグラーと親和性が高いかを説明することもできる。ツイートを誰へ向けてでもなくネットの海へ流し、流れ着いた誰かからハートマークをもらうことはまさに今述べたようなことだ。

プラットフォーム

イベントから考えた「場」は、物理的空間であったが、「語り」「言葉」をやるなら(身体による動きがいらないなら)むしろ電子的空間のネットワークによる「場」を考えたほうが良い、という考え方がある。
物理的空間のように施設費がかからないし、何人でもそこに参加できるし、ジャグリングを“する”ことを環境的に排除できるし。

僕は結局のところインターネット(Twitterとnote)でジャグリングの価値論について論者をやってくことにしたわけだが、インターネット以外ではSWJ(日本ジャグリング協会が発行する雑誌)、PONTE(青木直哉氏が立ち上げたジャグリングの雑誌)、アトチ(ピントクル主催のオムニバス公演「秘密基地」を特集する雑誌)などがある。
インターネット上で「ジャグラーの語りの場」を考えるとして、適切なプラットフォームは何なのだ、という問題がある。
YouTubeでは、PYGMIXがディアボロについての語りをやっており(cf.)、他にピントクルの「ピントくるくるラジオ」(2017-2018)、
他には2017年頃からツイキャス配信が流行ったり(※要出典)、
といった音声でやっていくものもあり、
一方、note(ここ)やTwitterのように文字でやっていくものもある。

双方向性interactivity、即応性quick responseについての不十分さなどの問題はあるかもしれないが、今のところ僕はここでやっている。

メディアという意味での情報プラットフォームの話は前にもしたような気がしなくもないが、芽はあるのかもしれないが育っているとは言いづらい。

noteやYouTube、Twitterではイベントはあまり考えにくいかもしれないが、コミュニティー的なものはある気がしていて、それでもそこから更にどのように企画を立ち上げることが「ジャグラーの語りの場」の形成につながるのかはまだ見えない。

以上、適当に思ったこと、しかし僕のやっていきにも深く関連する話でした。


めも


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