創作者「アーティスト」と(価値についての)言葉

じんです。目覚ましに頼らず目が覚める午前4時。

アーティストと言葉

「アーティスト」と言葉、という関係を再度考える。
(※ここで「アーティスト」は創作をする、(広義の)作品を作る人という以上の意味ではない。以下、アーティストと創作者は同義の語である。)

私はピンクの猫として少し前から、そして今も書いている。
「ジャグラーとしての私」と「ピンクの猫としての私」は違うアプローチをとるためにあえて切り分けられているが、創作者(ジャグラー)が常に言葉を持たないかといえば、そうではないだろう。

アーティストと、アーティストによる言葉

小説のあとがき、は小説自体が言葉による作品なので例として挙げづらいが、音楽であればライナーノーツliner notesや、美術などのアート作品のコンペ等でアーティストに作品解説文(ステートメント)の提出が求められることもあるだろう。その他にも、創作者が自分の作品について言葉で語ることはままある。
また、商業市場(マーケット)との関係では、言葉はセールストークにもなる。そこでは、いかにその作品の良さを伝え、アーティストが自身(の作品)を売り出すかが重要なのだから。

しかし、最近はステートメントの重要性が指摘されている(※おそらく、コンセプトアートなど、鑑賞にコンテクストが要求される作品が現代は増えているため)としても、アーティストには言葉は”不可欠”なものかと問われれば、「違う」という意見も根強くある。
それは、そもそも「アーティストは言語を媒体とする生きものではない」ということが根底にあるだろう。言葉で伝わらないものを表現しているのだからアーティストであるのであって、アーティストが真に生み出そうとしているもの(作品によって鑑賞者に引き起こされる感覚)がそれを語る言葉で生み出せるなら苦労しねーよ、と。
また、作品の価値を理解するのに言葉による解説が必要不可欠なら、それは作品としては未完成/失敗作だという考え方もある。

作品 と 作品についての言葉 との関係は、美術館に展示される絵画と、その近くにあるキャプション(小さくタイトル、作者名、素材、解説等が書かれている)との関係を考えると分かりやすい。
キャプションはあくまで作品を鑑賞するための補助線として機能するのであり、キャプションがなくとも作品自体の鑑賞は可能であり(異論は認める)、絵画がなくキャプションのみの展示などはありえない。
作品についての言葉は、作品自体の内在価値を左右するものではなく、あくまでその価値を理解する補助の役目があるだけだ。そして、作品抜きで、または作品に先んじて作品についての言葉が存在することはありえない。

アーティストと、鑑賞者による言葉

アーティストによる作品は、それが世界に提示された後は、鑑賞者によって様々に語られることとなる。
「良かった/悪かった」といった単純な評価や、「好き/嫌い」という趣味嗜好による判断、「よくわかんなかった」という作品の理解度に関する感想。
また、具体的に「作品のこの部分が良かった/悪かった」という詳細な対象の指摘、「作品はグロテスク/衝撃的/色彩やか/感動的/...だった」という作品の性質または作品から受けた感覚の指摘、

作品(の価値)について言葉を発する鑑賞者として考えられるのは、アーティストのファンのほかに、批評家/評論家/美学者(研究者)が挙げられる。
批評家/評論家/美学者(研究者)、まとめて「批評家」とするが、彼らも鑑賞者のうちの一人に過ぎない。
彼らは一般的なファンとは異なり、良い眼を持ち、知識を持っているかもしれない。作品を分析したり、洞察したりコンテクストを読むことで作品を解釈したり、作品のオリジナリティーや適切と思われる特徴的な性質を指摘したりすることに優れているかもしれない。したがって、作品の価値を理屈に基づいて/合理的reasonable、適切に(最大限に)理解し評価できる。

アーティストと、批評家

アーティストと批評家の関係を考えると、両者は複雑な立ち位置にいる。

上記の記事はファンとの関係が関わってきているが、引用したいのは
『発端は、R&Bシンガー、リゾ(Lizzo)の新作アルバム『Cuz I Love You』に、米音楽メディア「Pitchfork」のライター、ラウィヤ・カミール(Rawiya Kameir)が10点中6.5点評価を付けたこと。その後リゾはTwitterで不服を述べ(※現在は削除)、自分で音楽をつくらない批評家が雇用されているのはおかしい、と糾弾した。』の部分。
ほならね、」ではないが、アーティストが批評家に創作を求める発言は少なからずある。これはなんだろう、どういう意味なのだろう。

アーティストが批評家に創作を求めることは、アーティストに言葉を求めることのように、本質的ではない。
アーティストが、自身の作品に与えられた批評家からの評価に異議があるのなら、はっきりと「あなたの批評/評価が誤っている」と言えばいい。
そうすれば、「ではどこが間違っていたのか、評価が上方/下方に修正されるとすればなぜか、批評家が見落としている要素があるのか、評価を適切にしていない部分は何か、」といった議論に発展し、作品(の内在価値)についての理解が深まる。

偏った見方をすれば、アーティストが言葉を持たない(上記のような議論ができない)がゆえに、言葉による議論という批評家の領域で勝負をするのではなく、創作というアーティストの領域で勝負をしよう、という誘いなのだ。批評家のテーブルでなく、創作のリングでやりあおうぜ、というアーティストにとって自分に有利な場を設定する戦術なのだろう。「なに勝手にお前の得意な批評家のテーブルでやろうとしてんだよ、リングに上がれ(あるいはテーブルから降りろ)」ということだ。
だが批評家にとっては、テーブルこそがリングなのだ。

アーティストの批評家に対するある種の態度は、作品 と 作品についての言葉 との関係がそのままアーティストと批評家との関係に当てはまると考えるが故のものかもしれない。
つまり、作品なしで作品についての言葉は存在しなく、言葉は作品に追従する。それと同様に、アーティストなしで批評家は存在しえず、よって批評家はアーティストに追従せよ(批評家はアーティストに劣後する)、という態度だ。
批評家がアーティストに一定のリスペクトが必要とされるのは、作品と作品についての言葉との関係によるものかもしれない。

偏った見方をしないとすれば、どうだろう。言葉足らずではあれど、アーティストからの正式な反論であるとしたら。

一つには、「批評家には見えてないが、創作者には見えているものがある(ので創作してみろ)」という指摘だと捉えることができる。
創作の実践を知っている者は、これ以上の出来の作品を作ることが(理論上?技術上?予算上?)不可能であることを知っている(はずなのにお前ら批評家は知らない)。だから、私の作品の評価を上方に修正して評価できる。と、こういう内容の反論だ。

二つには、アーティストから批評家という立場そのものへの反論と捉えることができる。
「鑑賞者には見えていないが、その作品の創作者本人にのみに見えているものがある」という主張がありうる。というかこの主張は正しい。
作品について、作者しか知らないことは多くある。最も中心的なのは作品についての意図だろう。何を考えて作品を作ったか、どう言う意味を込めたか、作品がどのように受け取られることを意図していたのか、
他に、作者の創作背景background。作者がどういう生い立ち、どういう経験をしてこの作品まで行き着いたのか、作品の基となった現実の体験があるならそれは何か、
そういったことは、作品の解釈や評価にも関係することだが、作者にしか分からないことだ。

しかし、この主張によって批評家の存在理由が否定されるわけではない。反論が可能だ。
一つ目。
「作品について作者しか知らないことがある」というのが真実だとして、「作品を最もよく解っているのが作者である」といえるかは分からない。「作品(の価値)を最も適切に評価できるのが作者である」とは言い切れないのだ。
それは単に作者の客観的視点が不完全であるというだけではなく、作者が気付けなかった価値を批評家によって見出されることがあるということだ。

二つ目。
「作品について作者しか知らないことがある」というのが真実だとして、さらに「作品(の価値)を最もよく解っているのが作者である」と言えると仮定しよう。
それでも、創作者は、作品(の価値)を最もよく言い表すことができる者ではないのではないか。つまり、最初の話に戻るが、アーティストは十全に言葉を持つのか?創作者は自身が作者ゆえに分析や解釈が不要だとして、言葉で語る能力に優れている者だろうか?

(価値についての)言葉

作品の価値についての言葉とは何だろう。
良かった/悪かった、好き/嫌いといった単純な評価・判断は鑑賞者なら誰にでもできるが、価値を表していると言うには充分でない。
作品の価値を理屈に基づいて/合理的reasonable、適切に評価するには、「良い/悪い」という単純な評価の言葉だけではなく、さらなる”ある種類の言葉”が必要となる。

ある種類の言葉、とは、美的用語、美的性質についての言葉だ。
シブリーの美的用語の例からは、
・統一感がある(unified)
・バランスが取れている(balanced)
・まとまっている(integrated)
・生気がない(lifeless)
・のどかな(serene)
・陰気な(sombre)
・ダイナミックな(dynamic)
・力強い(powerful)
・鮮やかな(vivid)
・繊細な(delicate)
・感動的な(moving)
・古臭い(trite)
・センチメンタルな(sentimental)
・悲壮な(tragic)
・優美な(graceful)
・華奢な(dainty)
・かっこいい(handsome)
・端麗な(comely)
・優雅な(elegant)
・けばけばしい(garish)
・かわいらしい(lovely)
・きれいな(pretty)
・美しい(beautiful)
・物憂げな(melancholy)
・ごてごてした(flamboyant)
・らんらんとした(fiery)
・どぎつい(gaudy)
・安らかな(restful)
・病的な(sickly)
・味気ない(insipid)
・威風堂々たる(majestic)
・壮大な(grand)
・壮麗な(splendid)
・荒々しい(violent)
・どっしりした(massive)
などが、挙げられている。
これらは、「作品が~~だから、良い/悪い」という「~~」にあたる言葉であり、価値付けの理由の部分である。
また、これらの言葉を用いるに際しては、作品(の各部分、各要素)がどのように作用workしてこれらの性質を生み出し、さらに私たちの観賞的反応を引き出すのかを説明しなければならない。
『批評家〔の仕事〕とは、美的用語とその自然的基礎の関係を補強するものなのである。』

そのような種類の言葉を、アーティストは持っているだろうか?

漫画や、ダンスや、手品や、お笑いや、スポーツ、なんでもいいが、「作品の審査を同じ創作者(漫画家/ダンサー/手品師/お笑い芸人/スポーツマン)が行うべきだ」という主張がある。
批評家が創作者で(も)あることは、創作実践における知識や、同カテゴリの作品の一定量の鑑賞経験などを担保するだろう。適切な評価を下すことは出来るのかもしれない。
しかし、創作者であることは、適切な評価の”適切さ”を言葉によって説明できることを担保しない。この”適切さ”の説明というのが、価値付けの理由の説明、つまりは批評なのだ。

最近、私が触れているもの

この間サーカスのトークイベントに行ってきたのと、サーカス学会ができるらしい(パフォーマンス学会の派生からだと思う)のと、
手品の種明かしと美的鑑賞に関心があるのと、
ジャグリング論集を書いているのとで、
あまり芸術として確立されていない(芸術批評が確立されていない)分野のアーティストと言葉というのを考える機会が多い。

アーティストがより良い作品を作るためのフィードバックのためにも、アーティストの作品の良さを一般的に広めるためにも、行政から予算を取ってくるためにも、言葉は必要だと思うのですが、個々にやっているのか、私の観測範囲が狭いのか。
アーティストの言葉はどこ?、そのプラットフォームはどこ? ここ?

古い時代は知らないが、各種ブログから、今はTwitterなどのSNS、
PONTE(今は革新されているけど)、ピントクルのアトチ
JJFやWJDでの集い、学会、学会なあ。

朝になったので終わり。最後に宮沢賢治だけ置いときます。


宮沢賢治『農民芸術概論綱要』より
『 農民芸術の批評
……正しい評価や鑑賞はまづいかにしてなされるか……

批評は当然社会意識以上に於てなさねばならぬ
誤まれる批評は自らの内芸術で他の外芸術を律するに因る
産者は不断に内的批評を有たねばならぬ
批評の立場に破壊的創造的及観照的の三がある
破壊的批評は産者を奮ひ起たしめる
創造的批評は産者を暗示し指導する
創造的批評家には産者に均しい資格が要る
観照的批評は完成された芸術に対して行はれる
批評に対する産者は同じく社会意識以上を以て応へねばならぬ
斯ても生ずる争論ならばそは新なる建設に至る 』

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