花と蛇2
(承前)『花と蛇』を読み始めた最初のインパクトは、
もはや令和の時代には絶滅したと思われる奥ゆかしい昭和女性たちの
言葉遣い、そして散りばめられた死語の数々。。。笑
また敢えて申せばストーリー性もほぼない、といってよさそうです。
とにかくヤクザとズべ公(!)たちのたむろするアジトで、
徹底的に美女たちが凌辱の限りを尽くされるといったものです。
その方法も緊縛や吊るし、打擲、浣腸、排せつといった凄惨たるもので
(もちろんあくまで性的な行為で、死に至らしめるような展開はないけれど)、
美しいものを内蔵の裏側から徹底的に醜く
さらしものにして楽しむといった嗜好です。
鬼六は自分はあくまで「ソフトSM派」であるとのちに話していますが
(この著作を見る限りにわかに信じがたい)、
とにかく綺麗な女性をいたぶってみたいという性的嗜好があったのは
間違いなさそうです。
このような作品がなぜここまで人口に膾炙したのか、
このような倒錯を心に秘めた読者がそこまで多かったのか。
父と違い健全なフェミニストであり、恐妻家、、
いや愛妻家でノーマルな性向の私としてはいわく理解しがたいのですが、
読み進むうち、時々気になる表現があるのにも気づくのです。
「丸い平たい背のない椅子へ、絹餅のような美津子の尻がぺたりと乗っかっている。美津子の滑らかな背の中頃にある、痛々しく後手にくくり上げた可憐な手首が妙に艶めかしく見える」
「涙にうるんだ黒い瞳は、妖しいばかりにキラキラ光り、その凄惨な美貌を見た吉沢は、射すくめられたようにどきりとする」
いわゆる耽美的描写がそこここに散りばめられているのです。
また主人公・静子がヤクザどもから強要され丸裸同様で小唄を歌わされ、
かっぽれを舞わされる場面があるのですが、
「カッポレ、カッポレ、よいとな、よいよい」の掛け声に合わせて
涙を流しつつ四肢を躍らす絶世の美女を想像すると、
彼女の哀れさとともに、えもいわれぬ情景美が浮かび上がってくるのです。
美を徹底的に貶めた上で抽出される、
極美の結晶のようなものが漂うといえばいいのでしょうか。
この『花と蛇』は鬼六が20代の時に作成した
おのれの自慰用の「猥文」であったと述べています。
私はこの「猥文」という言葉がとても好きなのです。
おそらく鬼六は自虐的に使ったのだと思うのですが、
無駄な装飾を一切排し、自己の欲望に忠実に向き合いつつ
等身大に人間の業に向き合って吐き出されたような「猥文」というコトバ。
そしてその人の「猥」の念に翻弄される「美」の世界。。。
『花と蛇』については村上龍さん、宮本輝さん、高橋源一郎さんなど
著名な作家が解説を寄せてくださってきたそうで誠に恐れ多いのですが、
もしかすると鬼六の作品のそんな人間の業に対する「正直さ」を
共有いただけたのかなあと思っております。
令和の若い世代にこういった倒錯SMの世界が
どれだけ受け入れられるのか全く分からないのですが、
「どエス」「どエム」など日常会話で使っている子たちには、
ちょっとだけその原点として触れてみてほしい世界だとは思いました。。。
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