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「日本心霊」デジタルアーカイブ化と、そこからわかること

 本年は人文書院100周年にあたる年であり、社史プロジェクトの成果について大きな進展があった年でした。一番最初は『人文書院100周年記念小冊子』の作成、二番目は「日本心霊」デジタルアーカイブ化、三番目は論集『日本心霊学会研究』の発行となります。

 一番目の『人文書院100周年記念小冊子』は弊社100周年フェアで配布するために作ったもので、「社史」と「刊行物一覧」を掲載しています。私は営業部なので普段は書店営業をしているのですが、ここ2年は出張がほぼなくなりました。本来の仕事が出来ない代わりにデスクでの作業時間が取れたため、難渋していた社史もある程度まで完成することが出来ました。それなりに良いものが出来たと自負しております。全国のフェア開催書店で配布しておりますのでぜひお取りください。

 そして二番目の「日本心霊」のデジタルアーカイブ化は科研メンバーの栗田英彦さんや趣旨に賛同していただいた有志、そして丸善雄松堂さんの協力により11月ごろようやく形となる予定です。見出しのみとはいえ画像ファイル1430枚を一枚一枚開いて見出しを書きだすのは大変な作業で、見出し総数は20000件以上とかなりのボリュームとなりました。

 残念なことに人文書院所蔵の「日本心霊」は全703号中32号の欠落があり、その大半は昭和八年(1933年)に集中していました。昭和八年というと初期の「日本心霊」編集長だった野村瑞城の退会後、戦前の文芸路線をひらいた編集者・清水正光が入社した重要な年です。人事的な過失で保存するのを忘れてしまったのか、はたまた他に残せない事情があったのか、ともかく調査の必要がありそうです。

 このアーカイブ化に必要な見出し取りは大変な作業でしたが、大正~昭和初期の読み物をずっと読み続ける機会は珍しく、なかなか面白い作業でもありました。思わず笑ってしまうユーモア、今では常識でも当時は最新のテクノロジーだったラジオの話、懐かしい京のおばんざいの作り方などなど、読みふけってしまい作業が止まることもしばしばありました。そんななかで読み飛ばしがちだったのが、会員の体験談です。

 会員の体験談はたいてい「病気に苦しんでいましたが、とあるきっかけで心霊治療とであい、試したところ効果があり、本を読んで学び、他の人に試したところ好評です」というもので、まるでBSの野球中継で流れる健康食品のCMのようなつまらなさです。考えてみれば当然で、「日本心霊」紙は日本心霊学会の広告塔なのでネガティブな投稿は掲載されません。内容は異口同音ですからあまり興味を持てないのも仕方ないと言えるでしょう。

 しかし、この体験談は当時の会員の生の声であり、貴重な文献資料であることはまちがいないでしょう。何か活用法があるはずです。例えば日本心霊学会会員の行動や思想、履歴を取り出すことは可能でしょうか?

 そこで、例として北海道の日本心霊学会会員の様子を取り上げることにします。なぜ北海道かというと、弊社100周年のフェアを紀伊國屋書店札幌本店で行うことになり、北海道の読者に興味を持ってもらえるような内容のパネルを作る必要があったためです。札幌近郊にお住まいの方はぜひ現地でもご覧ください。

北海道の日本心霊学会会員

 まず、北海道と日本心霊学会のつながりを見ていきましょう。日本心霊学会には通信部というセクションがあり、通信部は名寄の法然寺に置かれていたことが「日本心霊」紙上からわかります。この法然寺には日本心霊学会会長渡邊藤交の兄、渡邊諦輪がいました。通信部がいったい何をしていた部署なのかよくわかりませんが、各地の支部より高い位置に名前があるとおり、日本心霊学会内で重要な仕事を担っていたことは想像できます。

まず見出しの中で「北海道」のワードを検索したところ、「日本心霊」大正十五年(1926年)四月一日号にてこのような記事と写真を発見しました。

北海道十勝に於ける心霊治療研究家の会合

□北海道十勝に於ける心霊治療研究家の会合
一月二十一日より二十五日まで五日間、実地患者五十名以上に対し、日本心霊学会会員の左記五名が実地研究をした折の記念撮影
前列向かつて右より及川勝介、児玉秀雄、米谷文太郎、後列右より高橋高雄、寺井庄吉
写真内の垂れ幕の記載
「日本心霊学会々員実地治療法研究会
主催 児玉心霊治療院池田施術所
会主 院長 心霊学士児玉秀雄」

 ここからわかることは、この児玉心霊治療院池田施術所は池田町(ワインで有名なところですね)に所在し、そこの院長であった児玉秀雄は心霊学士(日本心霊学会が認定した心霊治療家に授与したもので、決して国家資格などではない)を取得しており、写真に写っている五人はいずれも日本心霊学会の会員である、ということです。児玉は中央に座っていますが、坊主頭に洋装、意外に若いようにも見えます。

 この児玉という人物についてもう少し遡ってみてみましょう。「日本心霊」の見出しを調べたところ、児玉の体験談が掲載(大正十三年一月十日号)されていました。

児玉秀雄

◆札幌市北九條西二丁目三 三浦治療院内 児玉秀雄
小生曩(さき)に本会々員の末席を忝(かたじけの)ふしてより一年有半伝書を反復味読すること既に再三一方には十勝支部長井上師の教導を受けしが近来同師公共の事業に御多忙の故を以て折柄本道札幌市に御来遊中の三浦師へ推挙を給はり去月初め同師の膝下に赴き懇篤なる御指導に浴すること正に一カ月お陰を以て先に伝書に於て読みしところ着々として実地に試験し且つ実現せられて未熟の小生も日一日と修業の喜びを得札幌滞在中患者に接すること幾十多年世間に見離されたる不幸の病者も此偉大なる心霊力の発現に依って回春の悦びを得たること多し是実に自他の大喜悦なると共に近くは井上、三浦両師の賜ものなると思ひ更に遡りて会長の厚恩を想うこと益々切なり今普く世上の人に告ぐ願はくは世に在りふれたる催眠術気合術其他一時的療法と同視せず来りて此心霊の妙法を修め偉大なる霊の力に拠りて国家の為一身の為に此歓喜を得られん事を茲に悦びを述て深く本会への感謝を表す(大正十二年十二月十日着信)

 児玉は大正十二年の時点で一年と半年ほど心霊治療を学んでいたというので、入会は大正十年頃でしょう。住まいは十勝の方で、おそらく後に治療院を作った池田町かと思われます。三浦師とあるのは、富山で心霊治療所を開いていた三浦萬隆です。三浦が北海道で巡回治療をしていた様子は、「日本心霊」紙に掲載されています。

三浦萬隆氏の北海道行 □1923年(大正12年)5月15日号
前号に聊か報じ置きしが如く心霊会々員にして心霊治療に堪能なる三浦萬隆氏は過日来より北海道空知郡岩見澤町四條東四丁目弁護士中名生知徳氏の依頼により氏の病気治療に従ひつゝあるが更に同地方を巡遊し一般公衆治療に従はるゝ筈なり。聞く所によれば中名生弁護士は病気に罹り医薬に親しみしも効なく終に心霊治療法によるの外なしとして三浦氏に施術を依頼されたるものゝ由なるが心霊療法施術一回は一回と良好の成績を示しつゝありと三浦氏が霊腕の冴江も思ふに足る
北海道の三浦氏 □1923年(大正12年)6月15日号
常に心霊治療法の一般に施すべく各地を巡歴しつゝある三浦萬隆氏は先月来より北海道札幌市北八條西二丁目吉田卯之助氏方に滞在し一般公衆治療をなされつゝあるが霊手よく多年の難患者に全快の喜びを与えられつゝあるが尚暫くは同地方に滞留せらるゝ筈なるを以て同地方に於ける病人として受術希望者は前期吉田氏方三浦氏宛に問合さるゝが便なるべし

 心霊治療を求めた岩見沢の弁護士中名生知徳の招きによって出張治療を行った三浦は、その足で札幌へ赴き、そこで一般公衆治療を行うと書かれています。わざわざ富山から北海道まで呼び寄せるほどですから相当名前の通った人物だったのでしょう。心霊治療の効能を宣伝するため、そして現地で会員を増やすための活動として、この一般公衆治療は有効でした。そこで心霊治療術を学ぶために手伝いをしていたのが先述の児玉秀雄だったのです。

 先ほどの児玉の体験談とこの記事を総合して見てみましょう。児玉は大正十年ごろに入会し、本部から送られてきた『心霊治療秘書』を読んでいたが周りに気軽に聞ける人もいないのでなかなか上達しなかった。大正十二年、購読していた「日本心霊」で三浦萬隆の札幌滞在を知り、その手伝いをするうちにコツを会得し、大正十五年には十勝で自分の心霊治療院を持つほどになったのでした。そしてあの十勝の心霊治療実験会の写真へと繋がります。心霊治療院を開設した児玉がどのような活動をしていたのか、別の会員からの報告に記載されています。(大正十五年五月一日号)

一日四十人以上の患者で大多忙

一日四十人以上の患者で大多忙▼手の舞ひ足の踏む所をしらぬ位ゐの喜び
北海道十勝国中川郡本別市街地 青柳宮内
◆私が心霊治療法を修養し研究しやうと思つたのは、某会社に勤務中、常に頭痛がして、怠惰性となり、どうにも十分な勤務が出来ぬこうした病患を征服するには、迚(とて)も普通の薬剤や何かではいけない心霊的な方法でなければならぬと思つたからであつた
◆然し一方に激務があるためにそのまゝになつてゐると、頭痛眩暈は追々はげしくなつて来るので、会社の方は終に辞職することになつた、偶々本年三月、心霊治療家児玉秀雄氏が公衆治療のために出張されたので、これ幸ひと思ひ、心霊学会の会員となり、児玉師からも治療施術法を習ひ、治療秘書によりて研究したのである
◆試みに知己友人の中に、病気に悩んでゐるものがあると、治療施術して見るに非常に効果がある、患者は毎日増加する、全治者も多くなる、実際、今野私は手の舞ひ足の踏む所を知らずと云ふ状態である
◆勿論、これも心霊治療法を創始された渡邊藤交先生の賜物と思つてゐる、目下、一日の患者四十人以上、到底私一人では手の足りない状態である
◆然し只今までは施術料を定めたのでもなく、奉仕の積りであつたが、どうしても一般公衆治療を初めたいと思つてゐる
◆三月二十日から四月十二日までの施術者総数一〇八人、回数七百十二回に上つてゐる、現状から見ると今後、一日に六十名以上の患者を扱はねばならぬことになるだらうと思はれる

 青柳という会員は児玉から心霊治療を学んだと言っています。児玉は大正十二年に三浦から心霊治療を学んだあと、大正十五年にはすでに人に教える立場になっていました。日本心霊学会の会員数はこのような公衆治療による宣伝によってどんどん増えていったことが伺えます。また、青柳は「奉仕」と「一般公衆治療」を別のものと考えていることにも注意が必要です。「奉仕」は施術料を定めないが、「一般公衆治療」は施術料を定めているとも読みとれます。

 それにしても一日六十人の患者に治療を施すのはかなりの大盛況で、他の心霊治療院でもそういう状況なら、生業として十分成り立ったのでしょう。もちろん、この記事が掲載されている「日本心霊」紙は日本心霊学会の機関紙なのでその言葉は鵜呑みには出来ません。ただのうさんくさい宣伝文句とも取ることもできます。

 しかし、国民皆保険もなく簡単に医者にもかかれない時代、医者に見捨てられた患者にとってはまさに地獄に仏だったのでしょう。児玉や青柳は奉仕と称して基本的に無償で治療活動をしていましたし、失うものもなく健康になれると宣伝されれば飛びつくのはいつの世も同じです。また、治療家たちは宗教家、教育家などの副業を持ったものが多く、たとえ無償で治療したとしても名声が得られ、布教や教育活動に役立つだけで十分な見返りを得られたと考えられます。

 児玉から心霊治療を学んだ者に、とある僻地の小学校の教員がいました。名を米谷文太郎、先ほどの十勝の集合写真に写っていた人物です。彼の体験談もまた「日本心霊」大正十五年十二月十日号に掲載されていました。

米谷文太郎

難病全快より会員となる迄
北海道十勝国上浦幌上浦幌尋高小学校 米谷文太郎
元来蒲柳弱身の私は家庭の不幸相つぎ且校務のため心を煩はしたることなどが因して、遂に神経衰弱となり、医薬は勿論のこと或ひは自彊術に、百方手を尽したるも及ばず、懊悩煩悶十数年の久しきに亘つた、然るに昨秋、心霊治療家児玉先生の許で親して治療を受くるの傍、研究するに及びて多年の痼疾も忘れたる如く、別天地に出でた思ひがした、これと同時に心霊治療法の効果の偉大なるを自覚し、本年一月から校務の傍病になやめる人々に施療したる所好成績であつた、たとへば
「増田コト(五十八歳)喘息になやめるが四回で全治し、又岩本清治郎(五十二歳)が数年以前から胃腸病で困つていたのが唯の一回でよくなつた」
如く、全治者は枚挙に遑のない程にある、従つて一般の人々も大ひに喜び、私もこゝに力を得て、斯道のために今後ますます精進努力するの覚悟である
以上、日本心霊学会の会員となつた動機の一端を述べ且心霊治療法の主体たる渡邊会長の厚恩を思ひ猶ほ一層の繁栄を心より祈る次第である(十一月十四日記)

 「校務のかたわら病める人に施術した」とあり、治療院などを設けず心霊治療をしている人もいたのでしょう。米谷は小学校の教員だったので、もしかしたら自宅や放課後の保健室などでおこなっていたのかもしれません。もともと心霊治療は元手もかからず薬もいらぬものだったので、たとえ僻地で専用の治療院が無かったとしても病人に対し心霊治療を行うことが可能でした。米谷の場合は教育者として地域の信頼を得ることができ、無償で治療をしてもよかったのでしょう。

 こうして三浦の北海道行から児玉へ、そして米谷、青柳へと心霊治療は伝わり、北海道で会員がどんどん増えていく様子が「日本心霊」によって明らかになりました。

忘れ去られた心霊治療

 しかし、この大正末あたりが日本心霊学会のピークでした。昭和に入ると大不況から入会者は激減し、さらに当局による民間療法への締め付けもかさなり、「日本心霊」紙面からどんどん心霊関係記事が無くなっていきます。入会者の減少は収益の悪化につながり、日本心霊学会の活動がもう一つの柱であった出版にシフトしていく契機となりました。昭和十四年には「日本心霊」が廃刊となり、文芸書出版社としての人文書院の活動が主となった後、日本心霊学会としての活動はまったく見られなくなりました。

 日本心霊廃刊後、渡邊藤交は人文書院社主の渡辺久吉として日本心霊学会のことなど忘れたような日々を過ごします。人文書院は社主一人、経理の奥さん一人、編集長(清水正光)一人のほぼ家族経営、建物こそ日本心霊学会の頃と同じですが、かつての賑わいはもうありません。幸い本はよく売れ、和歌の作り方の本は2万部を作っても即完売してしまいます。毎日の荷造りで五十を過ぎた久吉はクタクタになり、休みの日は大好きな釣りをして、著者が訪ねてきたら得意のお茶を御馳走します。そんな日が続いていた昭和十九年、戦時企業統制で人文書院は立命館出版部と合併し京都印書館となり、久吉は京都印書館の取締役として初めての会社勤めをすることになりました。元々が豪傑気質の日本心霊学会の会長、還暦近くにもなっていまさらサラリーマンなんかやる気になれません。面白くなく寝てばかりの毎日。奥さんは東京の大学へ行った息子への手紙の中でしょっちゅう愚痴っています。(写真は老年の渡辺久吉(藤交)と妻・きくゑ)

晩年の藤交と妻亀久枝

 渡辺久吉の自宅兼人文書院(元日本心霊学会本部)は中京区河原町二条下ル、京都ホテルと京都市役所に面した土地に建っていましたが、空襲が激しくなってきた昭和二十年、近隣への延焼を避けるためとうとうこの土地を手放すことになります。ようやく適当な場所が見つかり引っ越したのが昭和二十年八月に入っての事でした。日本心霊学会の思い出が詰まった我が家を離れ、八坂神社と高台寺に挟まれた屋敷へ「日本心霊」バックナンバーなどと共に移りました。この様子は前回の私のコラムに記述しています。引っ越して数日経った暑い夏の盛り、戦争は終わりました。
 
 その後紆余曲折を経て、人文書院は翻訳本の出版社として蘇ります。久吉は学のある人でしたが外国文学はわかりません。戦後の人文書院を作ったのは東京の大学に通っていた長男の睦久でした。慶大でドイツ文学を専攻していた睦久はあこがれのヘッセへ直接出版の可否を問う手紙を出し、昭和二十五年、戦後初めてとなるヘッセの著作集を刊行しました。同年にはサルトル全集も刊行し、いずれも大ヒット。人文書院は翻訳本の出版社として地歩を固めたのです。

 サルトル全集の白眉『嘔吐(全集版)』が出版され、人文書院が日本心霊学会であったことなど誰もが忘れてしまった昭和二十七年。人文書院は株式会社となり六十七歳の久吉は社長に就任しましたが、社業は息子に任せ高台寺の自宅で悠々と過ごしていました。そんなある日、一通の手紙が渡辺久吉のもとに届きます。それは日本心霊学会に宛てた米谷文太郎の手紙(整理番号:12610)でした。

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(前略)
大正十四年貴会に入会依頼僻遠の地にありまして教職の傍(かたわら)今日迄治療に係る荊棘の道を歩み苦難を乗越えて参りましたが、札幌釧路帯広市に於て見放されし○病者多数全治到る所嬉ばれ今日あることを得ましたるを深く感謝厚く御礼を申し上げます。
近く四十年の教員生活を退き社会奉仕の為施療を試みるかと愚考致して居りますが頗る勝手かましい御願で貴会に於てもご多忙中御迷惑と存じますが其筋よりの治療師としての免許状授与の手続等に付詳細御教示下さるよし何卒宜しくお願い申し上げます。

大正十四年十二月七日 入会
〃 十五年九月十日 学術終了治療堪成証(第七〇三一号)
〃 十五年十一月二十四日 心霊学士の証を受く(第一四六号)
爾来今日迄治療に従る
昭和二十七年十月二十五日

          北海道十勝中川郡豊頃村立安骨小学校長 米谷文太郎
日本心霊学会渡辺会長殿

 なんと北海道の十勝では戦後に至るまで日本心霊学会の心霊治療が生き残っていました。それどころか、教員生活も終わったので今から心霊治療に専念しようというのです。入会から実に27年間心霊治療を行ってきたというのですから立派としか言いようがありません。もう幹部どころか元会長までもが心霊治療があったことを忘れてしまったのに、心霊治療を信じる人たちが戦後に至るまで確かに存在していたという証拠がここに残されていました。

 なおこの手紙の入っていた封筒には返信用の便箋と切手がそのまま残されていました。日本心霊学会はもう無くなった、と伝えるのも面倒だとおもったのでしょうか。久吉は戦後日本心霊学会の話をすることは一切なかったそうです。


◎過去の日本心霊学会―人文書院関係記事
『日本心霊』調査・アーカイブ化の意義(栗田英彦)
人文書院所蔵書簡調査の意義――主に文学的側面から(石原深予)
日本心霊学会―人文書院新発見資料発見の経緯


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