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人文書院所蔵書簡調査の意義――主に文学的側面から(石原深予)

人文書院の前身・日本心霊学会の機関紙『日本心霊』から日本の歴史を探ろうとする科研プロジェクトが発足しました。そして同時に発見された人文書院宛の大量の書簡を、滋賀文教短期大学の石原深予先生に調べていただいています。今回はその書簡の価値について解説をお願いしました。

 人文書院で発見された新出資料のうち書簡類はおよそ2500通で、大正期から昭和30年代くらいまでの時期のものです。書簡類は次の4種類に大別されます。

・人文書院の前身となった民間精神療法団体、日本心霊学会の会員からの書簡類

・人文書院から出版された出版物の著者からの書簡類

・日本心霊学会・人文書院創業者渡辺藤交(1885-1975)やその息子で人文書院二代目社長睦久(1920-2015、1955年社長就任)ら渡辺一家宛の私的な書簡類

・藤交・睦久・戦前期人文書院の編集長を務めた清水正光(1898-1951?)・人文書院等に宛てられた年賀状

 ほかに読者や書店からの注文書や請求書なども書簡類に含まれます。そして出版物の著者からの書簡には、太宰治、佐藤春夫など著名作家の貴重な書簡が含まれています。

 本稿では新出書簡の概要をたどりつつ、主に文学的側面から興味深く考えられる書簡を紹介します。


編集者・清水正光と川端康成の関係

 まず時期のもっとも古い、日本心霊学会会員からの書簡類について簡単に紹介します。日本心霊学会は機関紙『日本心霊』を刊行していました。『日本心霊』には会員の体験談が数多く掲載されていますが、書簡類のうち日本心霊学会会員からの書簡類は、これら体験談の投稿が大半と考えられます。

 次に人文書院から出版された出版物の著者からの書簡類について紹介します。

 まず一つ目の特徴として、1934(昭和9)年頃以前に人文書院から出版された書籍の著者からの書簡類が残っていないことが挙げられます。

 1934年頃までの人文書院では、『日本心霊』の編集者であり日本心霊学会・人文書院の出版物で初期のベストセラーとなった『白隠と夜船閑話』(1926)の著者でもある野村瑞城が書籍の編集も担当していたと考えられ、心理学書や民間精神療法書などが出版物の中心でした。

白隠と夜船閑話 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

 しかし瑞城宛の書簡類は残っておらず、また瑞城の消息は1935年頃で途絶えます(参照:菊地暁「野村瑞城(政造)について、私の知っている二、三のこと」 2016・12・16ワークショップ「日本心霊学会から人文書院へ:新資料調査の中間報告」発表レジュメ)。

 瑞城と入れ替わるように人文書院に登場した編集者が清水正光で、清水は『日本心霊』に連載されたラマチャラカの翻訳紹介『健康増進呼吸哲学――ヨギの強健呼吸法』を1931年に人文書院から出版していました。その縁で清水は人文書院に入社したと考えられますが、清水の人文書院への入社経緯はよく分かっていません。

 さて昭和10年代に藤交の片腕として文学書出版の名編集者として腕をふるった清水正光は、少年時代は作家志望で、のちにノーベル文学賞を受賞した川端康成(1899-1972)とは大阪府立茨木中学校の同級生で文学仲間でした。清水は同志社大学卒業後、時事新報社を経て1933年1月人文書院入社、1938年に同社支配人となっています。1934年3月6日の消印のある、林髞(作家木々高太郎の本名)から清水宛の書簡が残っており(書簡番号12227)、そこに林の著書の計画について書かれていることから、この頃には清水は編集者として活躍し始めていたようです。

写真1

写真1 書簡番号12227

 清水の死後になりますが、『著作権台帳』第九版(1960)の人文書院の沿革には、「戦前の国文畑の出版においては、藤田徳太郎著「近代歌謡の研究」風巻景次郎著「新古今時代」森本治吉著「萬葉集新見」東光治著「萬葉動物考」塩田良平著「山田美妙」荒木良雄著「室町時代文学史」等かず多い学術的大著のほか、小説、評論、詩歌、随筆の清新な刊行書に見るべきものがあつた。なお戦前の編集企画については、川端康成氏と同窓であつた清水正光氏が当られ、有形無形に川端氏の援助に負うところが大であつたわけである」と記載されています。つまり清水との縁によって川端康成が戦前期人文書院の出版企画を援助していたことがこの記載において明らかになりました。

 川端からの有形無形の援助という記載からは、昭和10年代の青年たちへ思想的に大きな影響を与えた評論家保田與重郎の著書出版が想起されます。

 人文書院で保田の著書は、まず『英雄と詩人』(1936)が出版されました。そして奥付の日付だけを見ればその4日前に、執筆時期的には『英雄と詩人』の後に書かれたものが収録される、保田の第1作目『日本の橋』が芝書店から刊行されていました。

 1937年2月、保田は文芸雑誌『文学界』において「日本の橋その他」で第1回池谷信三郎賞を受賞、評論家としての地位を確立します。この受賞に「その他」とあり、「その他」には『英雄と詩人』も含まれると解釈されたからか、以後人文書院による『英雄と詩人』の広告には「池谷賞受賞作」と銘打たれます。

 川端康成は『文学界』同人で保田を池谷賞に推していました。清水が人文書院で日本文学関係書を出版するにあたって川端に相談をしていたとすれば、川端から保田を紹介された可能性が考えられます。

 その後保田は人文書院から『浪曼派的文芸批評』(1939)、『詩人の生理』(1942)を出版します。保田の主宰した雑誌『日本浪曼派』(1935-1938)にはのちに人文書院から著作を出版する太宰治、佐藤春夫、外村繁、中河与一、中谷孝雄、芳賀檀、若林つや、真杉静枝、伊東静雄(戦後の人文書院で全集出版)らが関わっていますが、保田の『英雄と詩人』の成功が、日本浪曼派周辺の作家たちの書籍を人文書院で出版することにつながったのではないかと考えられます。

 なお保田與重郎、佐藤春夫から清水に宛てられた書簡が各1通、太宰治から清水に宛てられた書簡が3通(うち2通は葉書、1通は書簡)確認されています。保田からは出版依頼を喜ぶ返事、太宰は装丁や収録作品の選定、校正へのこだわりを示し、佐藤は書籍名の思案を記しています。

太宰治 思ひ出 : 他四篇 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

 川端康成の著書は残念ながら人文書院から出版されておらず、書簡も残っていません。しかし人文書院営業部佐藤良憲氏が確認された、1940年頃の新刊案内チラシと考えられるものの「作家自選短編小説傑作集」の近刊予告に、「題未定」として川端康成の名前が見られます。なお近刊予告の中に含まれる他の著者の本は刊行されました。これより清水正光が川端に人文書院から本を出したいと依頼していた可能性がうかがわれます。

写真2

写真2 1940新刊チラシオモテ

 また清水は、戦時中の企業整備で人文書院が統合された京都印書館に入社し、1950(昭和25)年まで勤めています。京都印書館からは1947年に川端の短編集『水晶幻想』が再刊され、1934年に改造社より刊行された『水晶幻想』とは装丁や一部の収録作品が異なっています。この奥付には発行者として清水の名前があります。1951年には病気のため亡くなったと考えられる清水と川端との往来を示す最後の証跡は、この短編集の奥付となりました。なおミネルヴァ書房初代社長杉田信夫氏の自伝『わたしの旅路』(ミネルヴァ書房 1983)には、のちに人文書院二代目社長となる若き日の睦久が、京都印書館で『水晶幻想』の企画編集をしたという話が記載されています(佐藤良憲氏のご教示に拠る)。

写真3

写真3 『水晶幻想』奥付写真

 他に著名な作者からの清水宛書簡として、中河与一、森田草平、水野葉舟、正宗白鳥、相馬御風、河井醉茗、前田晁、田辺尚雄、本間久雄、金田一京助、恩地孝四郎、中村古峡、式場隆三郎等の書簡が挙げられます。いずれも文学的に深い議論をしているわけではありませんが、校正の連絡、印税や再版に関する思案など、出版をとりまく現場の様相がうかがわれます。


歌集・国文学出版と清水の出張記録

 さて戦前期の人文書院は歌集や国文学研究書を多く出版していますが、清水は現在の大阪府三島郡島本町の出身で、この地は『新古今和歌集』の編纂を命じた後鳥羽院の水無瀬離宮の間近です。清水は1947年に『評釈伝記小倉百人一首』(大日本雄弁会講談社)を出版して、後鳥羽院の歌の評釈では院への思い入れも述べています。清水の関心の方向性が、『後鳥羽院』(思潮社 1939)の著書のある保田をはじめとする『日本浪曼派』関係者の著作出版や、昭和10年代の人文書院での歌集や国文学研究書の出版を特徴づけたのではないかとも考えられます。

 人文書院における歌集出版の特徴は、当時歌壇の主流であった写生や萬葉集を重んじるアララギ系ではない歌人たちの歌集や著書が出版されていること、国文学者であり歌誌『心の花』を主催した歌人佐佐木信綱とその関係者の歌集や著書が多いことが挙げられます。また名著と仰がれる風巻景次郎『新古今時代』(1936)をはじめ、さきの『著作権台帳』に挙げられたような国文学研究の大著を厳しい時勢にもかかわらず刊行していました。

 著名歌人では佐佐木信綱、土岐善麿、斎藤瀏、川田順、前川佐美雄ら、また俳人の水原秋桜子、飯田蛇笏らの書簡が残っています。これらは昭和10年代における短詩型文学出版の様相を考える上で貴重な資料と思われます。

 戦後、清水の死を悼む書簡が斎藤瀏(書簡番号10484)、荒木良雄(書簡番号10486)から人文書院へ届いています。消印がはっきりしませんが、これらの書簡が束ねられていた前後の書簡類は1951年のもので、斎藤らの書簡もその年のものと考えられますので、清水はこの年に亡くなったと推察されます。荒木良雄は著名な中世文学研究者で、人文書院から出版された『室町時代文学史』上巻(1944 前書き執筆は1941)の前書きには、「風巻景次郎氏の御芳情と、人文書院主及び清水正光氏の侠気によつて、ここに世に出るやうになつた」と、時代状況をうかがわせる謝辞が書かれていました。

風巻景次郎 新古今時代 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

 ところで清水はしばしば東京へ出張して著者と打ち合わせをしていますが、藤交へ長文の手紙でその報告をしています。

 たとえば清水から藤交宛ての書簡(1937・3・4付け消印 書簡番号11094)には、詩人の河井醉茗から水野葉舟の記念会について聞いた話を報告しています。会に柳田国男が出席していなかったこと、「彼が今日民族(ママ)学の権威たり得てゐるのは、一に水野氏に依るもの」であるのに出席していないことを折口信夫が言ったことが「痛快」であり、「恩人の記念会に出ない人なぞ余り感心出来ません」と話題を締めくくっています。

 またやはり清水から藤交宛ての書簡(1937年8月27日付け消印 書簡番号11817)では、人文書院・京都印書館から著書を出版した音楽学者の田辺尚雄から聞いた話として「戦後は必ずいゝ音楽が出来るので、音楽関係者は今から待期(ママ)の姿勢をとつて居ると云はれます」と報告しています。

 このような書簡からは、清水が著者からざっくばらんに聞いた話を藤交につつみなく報告していたという信頼関係がうかがわれ、また当時の証言としても貴重なものと思われます。

写真4-1

写真4-2

写真4 書簡番号11094、11817の一部

 最後に、戦後の人文書院および渡辺睦久宛書簡には、滝口修造、堀口大學、白井浩司、白井健三郎、鈴木力衛、佐藤朔、高橋健二、高橋義孝、芳賀檀ら翻訳者の書簡や、大岡昇平、加藤道夫、芥川比呂志、加藤周一、矢内原伊作、荒正人等の書簡が含まれます。翻訳者からの書簡では、他の出版社との翻訳権争奪戦や、誰がどの翻訳をするのかといった話題も書かれており、また1954(昭和29)年、人文書院から出版されたカプラン『誘惑者』が猥褻図書として発禁になった後の舞台裏を見せる書簡(書簡番号10907)もあります。これらは戦後の翻訳書出版史の貴重な資料であるでしょう。

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石原深予(いしはら・みよ)

1975年、京都市出身。京都府立大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得認定退学。博士(文学)。専門は日本文学。現在、滋賀文教短期大学非常勤講師。著書に『尾崎翠の詩と病理』(ビイング・ネット・プレス)、『前川佐美雄編集『日本歌人』目次集 戦前期分(増補・修正版)』(私家版、researchmap にてPDF公開)など。

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