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日本心霊学会―人文書院新発見資料発見の経緯

前回前々回と人文書院の前身・日本心霊学会の機関紙『日本心霊』から霊術団体の歴史を探る科研プロジェクトと、日本心霊学会から人文書院に至る大量の書簡類の調査を掲載しました。今回はその発見の経緯と調査中に見つかった貴重かつ珍しいものについて、弊社社史担当の佐藤良憲がお伝えします。

 2013年(平成25年)の「日本心霊」関係資料発見の発端は、高台寺北門前の人文書院旧社屋兼自宅の土蔵を整理したことでした。それまで人文書院の社員の中でも「聞いたことはあるが詳しいことはわからない」という程度でしかなかった存在が、確かに実在していたという証拠が見つかったことは非常に衝撃的な出来事でした。

 今回発見されたものは機関紙「日本心霊」の他、日本心霊学会が刊行していた書籍や日本心霊学会会長の渡辺藤交宛の書簡類、未使用の会員証、認可状、さらには実際に日本心霊学会で使用されていた机、椅子、火鉢までが発見されています。本稿では日本心霊学会関係の新発見資料が見つかった経緯や状況を振り返りながら、なぜ今まで残されていたのか、そしてなぜ隠されていたのかを検証します。

開かずの蔵から見つかったもの

 中京区河原町二条にあった人文書院が高台寺北門前に移転したのは1945年(昭和20年)8月、終戦の直前でした。旧社屋は造りがしっかりした築100年は優に越える日本家屋で、元は二軒だった家をつなげたため土蔵が南北に二つ存在する変わった間取りになっています。

 土蔵全体は南北両方とも十畳ほどの広さで、窓は一応あるものの小さく、昼間でも懐中電灯が必要な暗さでした。そのうち南側はまだ状態が良く、玄関にも近いことから住人がいた頃には納戸として使われていたと言います。一方、勝手口に近い北側の土蔵は人が立ち入ることがほぼ無く、長年に渡って一度も開かれることがありませんでした。

 その後、家人の死去による土地家屋売却のため整理が必要となり、とうとう開かずの蔵と化していた北側の土蔵に立ち入らねばならなくなりました。整理を担当したのは小社社長で、土蔵内の様子はすべて社長の証言に依ります。

 一階には河原町二条の社屋から持ってきたまま手つかずと思われる布団が発見されました。島根から恩人の僧侶(おそらく桑門秀我)が来たとき専用の布団と伝わっています。他に古い花瓶や火鉢、椅子や机などがあり、いずれも「日本心霊」の写真に写っている事務室で使われていたものであったことが確認されています。急な階段を上っていくと、突き当りに半世紀以上のホコリを被った「日本心霊」をはじめ膨大な量の資料が存在していたのです。

1.日本心霊表紙

〇写真1「日本心霊」表紙


 見つかった新発見資料の中で最大のものは「日本心霊」大正四年の創刊号から昭和十四年の廃刊号まで計711号です。創刊号からある程度まではきちんと厚紙の表紙がつけられて製本されており、それ以降のものは無造作に紙縒りで年ごとにまとめられていました。残念ながらすべてが揃っているわけではなく、昭和8年9月から12月までの分が欠落していましたが、発行が確認されている「日本心霊」の大半がここに日の目を見たわけです。しかし残されていた「日本心霊」紙は酸化がひどく、触るだけでぼろぼろと崩れてしまう状況であり、早急な処置が必要な状態でした。「日本心霊」研究の科研費はこの状態保全に使用され、京都市内の株式会社大入に依頼し、脱酸処理と寒冷紗による裏打ちを経て長期保存が可能になりました。

 現在この「日本心霊」は科研メンバーの栗田英彦先生と有志の力によって見出し取りが行われており、大学図書館向けのレファレンスとなるべく2022年中の完成を目指して進行中です。

2.日本心霊廃刊の辞

〇写真2「日本心霊」廃刊の辞(昭和十四年)


 「日本心霊」が見つかったさらに奥の方からは日本心霊学会発行の書籍が見つかりました。しかしこの場所は雨漏りがひどく、せっかく残された書籍もほとんど朽ち果てていた状況でした。比較的状態の良いものを選んで回収したものの、残念ながら多くが廃棄処分となっています。その中でもとりわけ『心霊治療秘書』は特に数が多く、この本だけで一つの山になっていました。奥付には(非売品)と書いてあり、入会広告などを見ると日本心霊学会入会時に会員証と一緒に送られていたようです。重版履歴を見ると大正年間は絶え間なく重版されていますが、昭和3年から昭和11年までの間は一度も重版されていません。このことから、昭和前期に日本心霊学会の新規入会者数が伸び悩み、主な活動を出版にシフトしていったと考えられます。

 書籍に関するものでは大量の紙型の他、『東西沐浴史話』のジャケットの版木が発見されました。書簡調査の結果、人文書院が京都印書館へ合併される前に最後に印刷をしたのはこの本であることがわかっています。『東西沐浴史話』は昭和6年刊行のロングセラーで、おそらく引っ越し後も版木を使用し印刷したのでしょう。

3.心霊治療秘書奥付

〇写真3 『心霊治療秘書』(非売品、昭和十一年版)

4.東西沐浴史話

〇写真4 『東西沐浴史話』ジャケット版木


 その他、古い写真では「日本心霊」紙上で使用された写真を収めたアルバム、読者からの投稿に使用された顔写真などが確認されています。日本心霊学会は専門の写真部が存在しており、心霊治療の様子や京都の名所観光地を撮影したものが見受けられました。しかし写真の裏書きの無いものは詳細がわからず、「日本心霊」を一枚一枚辿りながら詳細を確認しています。

 珍しいものでは日本心霊学会の未使用の認可状や会員証といったものがありました。「心霊秘條」は認可状を収めるための畳紙(たとうがみ)で、質の良い和紙で作られています。会員証は専用のスリーブケース付きで厚紙製、なかなか手の込んだ代物です。日本心霊学会の入会規約には心霊治療の講習を受け入会料を払ったものには認可状を発行し、会員証と『心霊治療秘書』を送っていました。宗教家の外護方便とある通り寺院の副業として心霊治療が行われており、各地の支部には寺院の名前が挙げられています。会員の中には僻地の無医村で治療活動にあたるものもあり、戦後に至っても治療の認可を求める手紙が届いていました。

5.日本心霊学会会員証

〇写真5 「日本心霊」会員証

6.入会広告

〇写真6 「日本心霊」紙上の入会広告


 他にも、たくさんのハガキや便箋が発見されました。戦前に人文書院の編集者として活躍した清水正光が東京出張の折りに旅館から送った日報は、戦前の出版史の貴重な資料といえます。東京に支社の無かった人文書院では、清水が毎月一週間ほど東京に滞在し、東京在住の著者を訪ね打ち合わせや執筆依頼をしていたようです。

なぜ「日本心霊」は隠され、そして発見されたのか

 では一体なぜこれだけ膨大な資料が存在していたにもかかわらず、今まで発見されなかったのでしょうか。これには人文書院の戦中から戦後にかけての変遷が大きく関係しています。

 1944年(昭和19年)、戦時企業統制により京都の文芸書を刊行していた版元が統合されます。立命館出版部と人文書院ほか数社が合併した新会社は「京都印書館」と名付けられました。京都印書館には人文書院社主であった渡辺久吉、唯一の編集者であった清水正光が入社し、出版社としての人文書院は一時休業状態となります。(実際には1945年に前川佐美夫著『歌集 金剛』(発行:人文書院 発売:京都印書館設立準備事務所)が出版されており、休業中とはいえ出版活動は行われていた)

 そして1945年(昭和20年)7月、渡辺久吉の自宅であった河原町二条の社屋が近隣の京都市役所や要人の宿泊する京都ホテルの類焼防止のために建物疎開の対象となり、土地の明け渡しを余儀なくされることになりました。8月に入ってようやく東山区高台寺北門前の物件が見つかり、引っ越しをしたところで終戦を迎えたのです。この時の引っ越しで河原町二条の邸宅から運び込まれたものが、今回見つかった日本心霊学会―戦前人文書院に関する資料だと考えられます。

T061015b新たに移転されたる本部全景

○写真7 河原町二条の日本心霊学会社屋(のち人文書院社屋)


 人文書院は1947年(昭和22年)12月に活動を再開しますが、戦前からの社員はみな京都印書館に残り、社員と言えるのは社長である渡辺久吉とその妻亀久枝、そして長男の渡辺睦久の三人だけでした。この睦久が1950年(昭和25年)に『ヘッセ著作集』『サルトル全集』といった海外文学翻訳により大ヒットを生み出し、戦後の人文書院の形を作っていくこととなります。1952年(昭和27年)4月に会社規模拡大から株式会社に改組し、下京区仏光寺高倉に移転しました。人文書院社屋として使われていたのはわずか7年にすぎません。

 今回見つかった書簡類は「日本心霊学会」関係をのぞけば清水正光が編集作業を開始した1934年(昭和8年)から1952年(昭和27年)のものが大部分を占めていました。これ以降の人文書院宛の書簡は仏光寺高倉宛に届いたはずです。古い時代の書簡類が残った理由は以下のように考えられます。

1.合併による休業の前に在庫を売りさばき、荷物が少なかったため思い出の品や既に活動を休止していたと思われる日本心霊学会の品物を持ち出す余裕があった。
2.高台寺北門前の邸宅は社屋兼経営者宅であったため、私信と会社宛の郵便物が混在していた。保存可能な土蔵があり、整理が面倒な書簡類はすべて仕舞っておくことができた。それゆえ整理をしようとすると非常に大変な状況にあり、結果手つかずのまま放置されることとなった。
3.1952年の移転後、高台寺北門前の人文書院旧社屋には会長となった久吉夫妻が住んでおり、夫妻没後も家人が住み続けたため人手に渡ることがなかった。

 しかし、この書簡類や資料は長年顧みられることはありませんでした。最大の理由は「イメージが合わない」ということでしょう。人文書院は1950年の「ヘッセ著作集」「サルトル全集」の成功により、海外文学全集の出版社としての名を高めます。このせっかく作った名声に「日本心霊学会」のイメージは不要でした。事実、社長を50年に渡ってつとめた渡辺睦久は新聞記事などで人文書院の歴史を語るときに、「戦前は文芸を中心とする出版方針で~」と日本心霊学会時代を省いた上で、ごく簡単な説明しかしていません。

 しかし小社ではこの発見を決して隠すべき過去として捉えることなく、むしろ誇りある100年史の一部として扱うことに決めました。戦後の海外文学全集で一時代を築いた人文書院のイメージを損なうものでは無いと判断したためです。出版傾向は時代によって大きく変われども、どれも人文書院の歴史を彩るラインナップに違いありません。来年に百周年を迎えさらに次の百年へ向かうために、歴史の整理をして次の世代へバトンを渡すこと、それが人文書院資料整理の意義なのです。

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