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書肆神保堂
2017年8月28日 19:12
わたしはぢつと窓にもたれて蝶のうまるるなまあたたかさを知る。心の上にうつれるうすぐらき花ぐもり、それがこそばゆき夜となれば、かがやける露より露へ白きかげを引きて匂へるゆふべとなれば、たへられぬさびしき夜となれば、なまあたたかさのふわふわと寄りくる心のほとりに、わたしのくらき心のほとりに、蝶のうまるるけはひがひしひしとせまりきたる―わたしはぢつと眠つてゐても
2017年8月26日 18:19
それが何んであらうとも影のやうなものであらうともいつ迄もはなされず。それをぢつと握りて次第につよく握りしめて命が通る。わたしはさびしき野のごときものなり、あをざめし月光のふるへが伝はりておびえる心をもつ。うすぐらき樫の葉の繁りにとまりて小鳥が黒き眼をかたくとぢ何事か切りに考ふ。それによく似し心となりていつまでもはなされぬ生の幻、かがやける命の影。いかにつまら
2017年8月18日 22:32
小供の頃は葬式のあるごとにその家にあつまりゆきうつくしき弔旗をもたせてもらひぬ。小供の頃はなるべく長い弔旗をあらそひてもち、その葬列の先頭にあゆむをほこりとしたり。青い竿にまきつける弔旗のぢつと心に垂れしも知らず。かなしき鐘の音も知らざる人のやうに心の中を通らず。人々のすすり泣くをみてただあやしげなる顔とおもひぬ。小供の頃は葬列の長い行列を楽隊めきしものにおも
2017年8月17日 18:01
階下の室のともし火は消えたり、そのくらい室へ階段をしづかに心が下る。階下の室はせまく暗し、その穴ぐらのごとき室へ下れば階段が心のおもさにふるへゆらぐ。階段の下方はくらやみとなりて見えず、下へおりる心がゆきまどひて止まる。一足ごとにくらい室へ、死のふかい室へおりてゆく暗い階段。何かしらずその階下の室に蜘蛛のごとくぢつと這ひておりてくる心を待てるものあり。階段は
2017年8月15日 10:02
白き水の上をのぞき見れば小さき渚に心が軽く浮べり。うかべる心は水の上をふわりふわりながれて行く。しづかなる広き水の面(おもて)に張りつめし緑の色が浮きあがりてひかる小波(さざなみ)。水の底はふるへうごけり、ながるる砂のくるくると廻るが透いて見ゆ。生物によく似し砂は白き水の底を下へ、下へ追はれるやうに遠き川下へ。それをぢつと見つめて居ればかなしくなりし水の上の心
2017年8月5日 17:55
柳の下を通ればそのたれし長き緑の葉にそつとすがる心。柳の下をとほればそよ風の吹きくるけはひにわが心、左右にゆらぐ。柳の下をとほれば何か追ひくるものあるやうにややおちつかぬ心となれり。われとも思へず、他人(ひと)の事にもあらず、ただすこしおちつかぬ心となれり。底本:『獄中哀歌』南北社大正三年三月二十三日発行*旧字は新字に、「ゝ」などの踊り字と俗字は元の字に改めた。
2017年8月5日 07:04
不幸の指ざす方に死せる木立があり。そのふかい木立の奥に、外へ出でざる鴟梟がくらい心をいだきて棲み、その数が年々に殖えて行く。不幸の指ざす方へ旅の老爺(おやじ)はいそぎゆきて死にたりさまよへる心が路を失ひて眼をあけしまま野倒れ死にたり。その眼はいつ迄もとぢず、腐爛しさりても閉ぢず。いつまでも死のくらい木立にともせる灯のごとく残れり―さびしげに何かみつめてぢつ
2017年8月5日 00:55
机のひきだしにありし鳴らぬ笛、銀のやや錆(さ)びたる鳴らぬ笛。その笛をくちびるにあつれば息のみとほりて鳴らず、かなしき心が管(くわん)のなかに残れり。管のなかをのぞき見れば、残れるその心は見えず。されば更に強く息を吹く、息は暴風(あらし)のごとく吹きぬけてえひどれのごとき声をいだす―見えざる心が笛のなかにかなしげに残りてえひどれのごとき声を出す。笛は鳴らず、わ
2017年8月3日 19:36
多くの囚徒が輪をなして歩く、山櫨の青い繁りの周囲をくるくるとその輪が廻る。編笠の細きすかし穴からやる瀬なき眼をかがやかし黄色い日かげを見まもりながら。編笠のなかの息のつまるくるしさにしかめし顔がいくつも並びて大きな輪をつくり無言に歩く。追はれるやうなおちつかぬ心が山櫨の青き繁りのたれ下りたる葉先にすがる。一様にかなしきおもひを抱ける囚人の輪が太息と太息を繋ぎ合す。
2017年8月3日 09:32
音もなく雨降れり、白きフィルムのつぎ目のごとくちらちらと心のうへにひかりて降れり。音もなく雨降れり、その雨のくらきかげが監房へさし入りて心を追ひ廻す。音もなく雨降れり、その雨のしたたりを見つめて居れば黒き憂愁が心の方へ躙り寄る。わが心とはおもへぬ心、囚人のつめたくなりし心におちくる雨。うすぐらき心の底にたまらんと降りくる雨。雨の日の獄の黒き憂愁はふとき錘(を
2017年8月2日 19:20
疲れし心の上に黒き蠅が来れり。その蠅はただ一つ、くらい監房へいづくよりか飛び来りてくるくるとだるき身を廻す。ぶいぶいとものうき唸りが呼吸(いき)のなかに入りてふかく吸ひこまれ身体(からだ)の所々に果敢なき眠たさを催す。黒き蠅が来れり、つかれしわが心を餌のごとくおもひて来れり。うすぐらき心の発するにほひをいづくよりか嗅ぎ出して来れり。ふと蠅の舞ふ音きこえず、蠅は