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加藤介春『獄中哀歌』

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2017年8月の記事一覧

加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」春の夜

加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」春の夜

わたしはぢつと窓にもたれて
蝶のうまるる
なまあたたかさを知る。

心の上にうつれる
うすぐらき花ぐもり、
それがこそばゆき夜となれば、

かがやける露より露へ
白きかげを引きて
匂へるゆふべとなれば、

たへられぬさびしき夜となれば、
なまあたたかさのふわふわと寄りくる
心のほとりに、

わたしのくらき心のほとりに、
蝶のうまるるけはひが
ひしひしとせまりきたる―

わたしはぢつと眠つてゐても

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加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」淋しき野の如きものなり

加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」淋しき野の如きものなり

それが何んであらうとも
影のやうなものであらうとも
いつ迄もはなされず。

それをぢつと握りて
次第につよく握りしめて
命が通る。

わたしはさびしき野のごときものなり、
あをざめし月光のふるへが伝はりて
おびえる心をもつ。

うすぐらき樫の葉の繁りにとまりて
小鳥が黒き眼をかたくとぢ
何事か切りに考ふ。

それによく似し心となりて
いつまでもはなされぬ生の幻、
かがやける命の影。

いかにつまら

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加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」小供の頃

加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」小供の頃

小供の頃は葬式のあるごとに
その家にあつまりゆき
うつくしき弔旗をもたせてもらひぬ。

小供の頃はなるべく長い弔旗を
あらそひてもち、その葬列の
先頭にあゆむをほこりとしたり。

青い竿にまきつける弔旗の
ぢつと心に垂れしも知らず。

かなしき鐘の音も
知らざる人のやうに
心の中を通らず。

人々のすすり泣くをみて
ただあやしげなる顔とおもひぬ。

小供の頃は葬列の長い行列を
楽隊めきしものにおも

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加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」揺るる階段

加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」揺るる階段

階下の室のともし火は消えたり、
そのくらい室へ
階段をしづかに心が下る。

階下の室はせまく暗し、
その穴ぐらのごとき室へ下れば
階段が心のおもさにふるへゆらぐ。

階段の下方はくらやみとなりて見えず、
下へおりる心が
ゆきまどひて止まる。

一足ごとにくらい室へ、
死のふかい室へ
おりてゆく暗い階段。

何かしらずその階下の室に
蜘蛛のごとくぢつと這ひて
おりてくる心を待てるものあり。

階段は

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加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」流るる砂

加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」流るる砂

白き水の上をのぞき見れば
小さき渚に心が軽く浮べり。

うかべる心は水の上を
ふわりふわりながれて行く。

しづかなる広き水の面(おもて)に
張りつめし緑の色が浮きあがりて
ひかる小波(さざなみ)。

水の底はふるへうごけり、
ながるる砂の
くるくると廻るが透いて見ゆ。

生物によく似し砂は
白き水の底を下へ、下へ
追はれるやうに遠き川下へ。

それをぢつと見つめて居れば
かなしくなりし水の上の心

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加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」柳の下

加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」柳の下

柳の下を通れば
そのたれし長き緑の葉に
そつとすがる心。

柳の下をとほれば
そよ風の吹きくるけはひに
わが心、左右にゆらぐ。

柳の下をとほれば
何か追ひくるものあるやうに
ややおちつかぬ心となれり。

われとも思へず、
他人(ひと)の事にもあらず、
ただすこしおちつかぬ心となれり。

底本:『獄中哀歌』南北社
大正三年三月二十三日発行
*旧字は新字に、「ゝ」などの踊り字と俗字は元の字に改めた。

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加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」眼

加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」眼

不幸の指ざす方に
死せる木立があり。

そのふかい木立の奥に、
外へ出でざる鴟梟が
くらい心をいだきて棲み、
その数が年々に殖えて行く。

不幸の指ざす方へ
旅の老爺(おやじ)はいそぎゆきて死にたり

さまよへる心が路を失ひて
眼をあけしまま野倒れ死にたり。

その眼はいつ迄もとぢず、
腐爛しさりても閉ぢず。

いつまでも死のくらい木立に
ともせる灯のごとく残れり―

さびしげに何かみつめて
ぢつ

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加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」鳴らぬ笛

加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」鳴らぬ笛

机のひきだしにありし鳴らぬ笛、
銀のやや錆(さ)びたる鳴らぬ笛。

その笛をくちびるにあつれば
息のみとほりて鳴らず、
かなしき心が管(くわん)のなかに残れり。

管のなかをのぞき見れば、
残れるその心は見えず。

されば更に強く息を吹く、
息は暴風(あらし)のごとく吹きぬけて
えひどれのごとき声をいだす―

見えざる心が
笛のなかにかなしげに残りて
えひどれのごとき声を出す。

笛は鳴らず、

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加藤介春著『獄中哀歌』獄中哀歌(その十六)心の輪

加藤介春著『獄中哀歌』獄中哀歌(その十六)心の輪

多くの囚徒が輪をなして歩く、
山櫨の青い繁りの周囲を
くるくるとその輪が廻る。

編笠の細きすかし穴から
やる瀬なき眼をかがやかし
黄色い日かげを見まもりながら。

編笠のなかの息のつまるくるしさに
しかめし顔がいくつも並びて
大きな輪をつくり無言に歩く。

追はれるやうなおちつかぬ心が
山櫨の青き繁りの
たれ下りたる葉先にすがる。

一様にかなしきおもひを抱ける
囚人の輪が太息と太息を繋ぎ合す。

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加藤介春著『獄中哀歌』獄中哀歌(その十五)雨の監房

加藤介春著『獄中哀歌』獄中哀歌(その十五)雨の監房

音もなく雨降れり、
白きフィルムのつぎ目のごとく
ちらちらと心のうへにひかりて降れり。

音もなく雨降れり、
その雨のくらきかげが
監房へさし入りて心を追ひ廻す。

音もなく雨降れり、
その雨のしたたりを見つめて居れば
黒き憂愁が心の方へ躙り寄る。

わが心とはおもへぬ心、
囚人のつめたくなりし心に
おちくる雨。

うすぐらき心の底に
たまらんと降りくる雨。

雨の日の獄の黒き憂愁は
ふとき錘(を

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加藤介春著『獄中哀歌』獄中哀歌(その十四)蠅

加藤介春著『獄中哀歌』獄中哀歌(その十四)蠅

疲れし心の上に
黒き蠅が来れり。

その蠅はただ一つ、くらい監房へ
いづくよりか飛び来りて
くるくるとだるき身を廻す。

ぶいぶいとものうき唸りが
呼吸(いき)のなかに入りてふかく吸ひこまれ
身体(からだ)の所々に果敢なき眠たさを催す。

黒き蠅が来れり、
つかれしわが心を
餌のごとくおもひて来れり。

うすぐらき心の発するにほひを
いづくよりか嗅ぎ出して来れり。

ふと蠅の舞ふ音きこえず、
蠅は

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