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加藤介春『獄中哀歌』

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加藤介春著『獄中哀歌』「蜘蛛」(二)

    二

 監房の第一夜は明けた。Mは起床時刻の三十分位前から眼を覚して、好く眠つたとは言へ尚どこか身体に眠り足らぬ所のあるやうな懶(ものう)い感じの中に浸りながら起床時刻の来るを待つた。牢獄の朝の薄暗さがまだ房の隅々に溜つてゐた。
 起床は五時で、それから約三十分もすると朝の飯になる。赤い獄衣を着けた既決囚の炊夫が一定の型に入れて盛つた荒いボロボロの麦の引割飯を担荷の様な物に載せて来て、五器

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加藤介春著『獄中哀歌』「蜘蛛」(一)

    一

 南の国のその監獄は、ずつと昔から残つてゐる極く旧式な古い建物で、外囲(そとがこひ)の高い壁も昔風の瓦と漆喰とで築きあげたのが、所々漆喰の剥げ落ちて臓腑のやうに中身(なかみ)の赤い土をはみ出したり、瓦に青い黴が生へてヌルヌル辷りさうな所があつたりして、門も城下の町邸などに好く見受ける高い大きな真黒い物だつた。獄舎は一寸した雨や風にも腐朽し破損して、その都度古い襤褸(ぼろ)を継ぎはぎす

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加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」暗き室の入口にて

くらき室へ入らんと火をすりし時、
ただ一本の燐寸の消えたるかなしさ。

燐寸の火のシユウと燃えて消えし
白きすり殻の指先きに残れるかなしさ。

室はくらし、その入口にたたずみて
指にもてる燐寸の白き殻のかなしさ。

夜もおそければ眠らんと帰りし心の
ただ一本の燐寸の火の消えたる室の前。

室へは入(い)らず、またもくらき心を抱きて、
賑へる町へ酒飲みに行くそのかなしさ。

底本:『獄中哀歌』南北社

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加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」夏の宵

赤い提灯が河岸の家の二階の窓から
川のうへにおりゆきて水にうかべり。

青い水のうすぐらき川のおもてに
何をするにや提灯のかげが来れり。

流るる水のうへにぢつと止まりて
赤く燃ゆる提灯のあかりが薫る。

流るる水の心をすひとりて
赤い光が次第にふくれつつ。

流るる水のつぶやきを聞きにゆきしか
河岸の家の提灯が水にうかべり。

何をするにや水のうへに
提灯の火はぢつと止まれり。

底本:『獄中哀

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加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」路上所感

見もしらぬ外国へ行きたくなりて
金を貯める男の
あをざめし顔。

何となく気うとき心――
ふとゆきずりに
しばしば出会ふことある心。

それは皆疲れて居れども
いそがはしげに歩める
かなしき人々。

たがひに知らぬ人々以上の
かなしきおもひを運べる
気うとき心――

何となく気うとくなりて
ただ独り金を貯めんとおもへり。

底本:『獄中哀歌』南北社
大正三年三月二十三日発行
*旧字は新字に、「ゝ」

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加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」小鳥と赤き夕日

それはゆふ日が赤く照れる時。

ほふ、ほふと小鳥の群れを追ひしに
わが方をふりかへり見て
逃げさりし鳥がありたり。

その鳥のかなしげなる顔――
ほふ、ほふと追ひし声が
風の音のごとくきこえたりしや。

それは夕日が赤く照れる時。

それからまた逃げし小鳥を
よび来りて木にとまらせ
ぢつと眺めてゐたくなりたり――

鳥は風とおもひて逃げしやも知れず。

底本:『獄中哀歌』南北社
大正三年三月二十三

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加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」第二の心

心が
雷管のごとく破裂せんとす――

たえず汽車のごとき物が通りて
うすぐらき地平線の向ふへ超ゆ。

心のあゆみし太き足跡が
いつまでも草原にうつれり。

太き命をにぎりて
ギイと押す銀の扉。

そのおくに待てる第二の心が
こなたへ向く。

底本:『獄中哀歌』南北社
大正三年三月二十三日発行
*旧字は新字に、「ゝ」などの踊り字と俗字は元の字に改めた。また、一部を代用字に改めた。

加藤介春(188

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加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」鳴かぬ小鳥

わたしの帰りがおそい故か、
それともわたしの留守に鳴きあいたのか、
もう鳴かぬ籠の小鳥。

うすぐらい籠のなかに、
こころ細げにとまつた小鳥。

部屋(へや)に入つてともし火をつくれば
おどろかされてわたしの方へ見向いた小鳥。

ぢつとわたしを見つめてゐたが
またもすぐ眠らうとうつらうつら、
もう鳴かぬ籠の小鳥。

小鳥はねむたさにうつらうつら、
その鳴かぬ鳥の心を訪(たづ)ねんと
籠のなかをのぞ

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加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」花の亡霊

いづくよりきたりしか知らねども
ふとうかびいでし赤き花の亡霊が
私のまへをふわりふわり往来(ゆきき)す。

わたしの心を追ひきたりて
なよなよともたれ掛る、
その花の亡霊は何のかたちも無し。

くらき影より影へつたはるそよ風が
路をうしなひて辺(あた)りへまぎれゆけば
赤き花の亡霊は身をふるはす。

赤きダリヤは夢のなかに織りこまれ、
かがやける透影を外へ洩らす、
日はねぶたげなる光を広々と敷く。

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加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」春の夜

加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」春の夜

わたしはぢつと窓にもたれて
蝶のうまるる
なまあたたかさを知る。

心の上にうつれる
うすぐらき花ぐもり、
それがこそばゆき夜となれば、

かがやける露より露へ
白きかげを引きて
匂へるゆふべとなれば、

たへられぬさびしき夜となれば、
なまあたたかさのふわふわと寄りくる
心のほとりに、

わたしのくらき心のほとりに、
蝶のうまるるけはひが
ひしひしとせまりきたる―

わたしはぢつと眠つてゐても

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加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」淋しき野の如きものなり

加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」淋しき野の如きものなり

それが何んであらうとも
影のやうなものであらうとも
いつ迄もはなされず。

それをぢつと握りて
次第につよく握りしめて
命が通る。

わたしはさびしき野のごときものなり、
あをざめし月光のふるへが伝はりて
おびえる心をもつ。

うすぐらき樫の葉の繁りにとまりて
小鳥が黒き眼をかたくとぢ
何事か切りに考ふ。

それによく似し心となりて
いつまでもはなされぬ生の幻、
かがやける命の影。

いかにつまら

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加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」小供の頃

加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」小供の頃

小供の頃は葬式のあるごとに
その家にあつまりゆき
うつくしき弔旗をもたせてもらひぬ。

小供の頃はなるべく長い弔旗を
あらそひてもち、その葬列の
先頭にあゆむをほこりとしたり。

青い竿にまきつける弔旗の
ぢつと心に垂れしも知らず。

かなしき鐘の音も
知らざる人のやうに
心の中を通らず。

人々のすすり泣くをみて
ただあやしげなる顔とおもひぬ。

小供の頃は葬列の長い行列を
楽隊めきしものにおも

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加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」揺るる階段

加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」揺るる階段

階下の室のともし火は消えたり、
そのくらい室へ
階段をしづかに心が下る。

階下の室はせまく暗し、
その穴ぐらのごとき室へ下れば
階段が心のおもさにふるへゆらぐ。

階段の下方はくらやみとなりて見えず、
下へおりる心が
ゆきまどひて止まる。

一足ごとにくらい室へ、
死のふかい室へ
おりてゆく暗い階段。

何かしらずその階下の室に
蜘蛛のごとくぢつと這ひて
おりてくる心を待てるものあり。

階段は

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加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」流るる砂

加藤介春著『獄中哀歌』「赤き日」流るる砂

白き水の上をのぞき見れば
小さき渚に心が軽く浮べり。

うかべる心は水の上を
ふわりふわりながれて行く。

しづかなる広き水の面(おもて)に
張りつめし緑の色が浮きあがりて
ひかる小波(さざなみ)。

水の底はふるへうごけり、
ながるる砂の
くるくると廻るが透いて見ゆ。

生物によく似し砂は
白き水の底を下へ、下へ
追はれるやうに遠き川下へ。

それをぢつと見つめて居れば
かなしくなりし水の上の心

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