古代中国の歴史から「国」の概念を考えたいpart1〜三皇五帝から夏王朝滅亡まで「帝の系譜と徳」
中国の歴史として、国という概念に近しいものが出現するのは伝説上の三皇五帝の時代である。
史実を見ていくと、初期王朝形成以前は石器時代であり、黄河・長江・遼河などで文明が見られるが、中国史上のメインストリームとなる儒教思想の形成に対する影響は少なく、史実ではないものの以後の中国の国家観に多大な影響を与えた古代神話時代から見ていくことにする。
三皇五帝の時代~夏王朝成立
三皇五帝については諸説あるようだが、三皇は神であり、五帝からが人間=聖人であるというものが多い。
特に最初の五帝とされる黄帝は、黄帝以後の君主や、中国の初期王朝の始祖・数多くの諸侯の先祖とされている。
現代においては漢民族は「炎黄子孫」として、黄帝と、黄帝の異母兄弟とされる炎帝の子孫意識を強めている。
この辺りは、もう少し時代を進めて中国史を概観していく中で都度考察していきたい。
黄帝の治世の始まりとして、『史記』五帝紀によるストーリーは、次のようなものである。
黄帝以前にあった神農=炎帝の治世が衰え乱れたとき、諸侯は徳を修めた黄帝に従い、炎帝はこれを許さず、諸侯を攻めたが黄帝はこれに勝った。
次いで黄帝は少数民族を率いて天下を荒らしまわった蚩尤を倒し、天子となることで、五帝の時代が始まる。
五帝の時代では、君主の交代は徳を持つ聖人に譲る「禅譲」によって行われる。
特に有名な堯→舜→禹の流れは全て禅譲によるものであり、禹が夏王朝の始祖である。
禹も含めて帝はみな黄帝の子孫ではあるが、直接の父子の関係ではなく、姓も異なる。
よってこれは世襲ではなく他姓の者への禅譲となる。
五帝の時代において禅譲が行われる場合においてはしばしば、聖人が先代の子に一度は帝位を譲るも、諸侯が先代の子よりも聖人のもとに集まって結果的に聖人が帝位につく、というテンプレート的な継承が行われる。
禹も先代たちにならい、生前賢臣である「益」という他姓の者に帝位を譲ろうとしたが、結局は禹の子である「啓」が跡を継ぐことになる。
以後、夏王朝は17代まで直系世襲が続くことで、
夏王朝が中国史上最初の世襲王朝と呼ばれることになる。
禹から啓へ帝位が移った経緯については史書によって様々な説がある。
一つは益が禅譲のテンプレートに則って、禹の実子・啓に帝位を譲ったところ、諸侯が啓に集まって、結局啓が帝位についたというもの。
他の書物では啓が益を攻めて、天下を奪い取ったというものもある。
易姓革命の元になる思想を形成した孟子は、禹の実子・啓こそが賢、つまり実子に実力があったため、これは天命に従って禹を正当に継承するものであると正当化している。
いずれにしろ、ここで禹から他姓の益ではなく、実子の啓に帝位が移ったことで、帝は禹や啓の姓である夏后による王朝である「夏王朝」が始まる。
(后は王という意味もある。)
后羿の簒奪
『史記』夏本紀では触れられないが、『春秋左氏伝』(=左伝)によると、啓の子である3代目太康の時代には、国が衰えてしまい、現在の山東省にあったとされる有窮という国出身の后羿という人が太康を追い出し、政権を奪っている。
后羿とその家臣・寒浞は悪政を敷き、その後さらに寒浞が后羿を殺めて実権を奪う。
この間も、太康の子らが夏王朝の帝として系譜を続け、6代目の少康の時代になって、遺臣とともに寒浞を倒して実権を取り戻すことになる。
夏王朝を簒奪した后羿は書物では「夷羿」とも書かれている。三国志おなじみ杜預の注釈によると、夷は氏とのこと。
戦国時代になると氏と姓は同じものになっていくが、古代中国においては姓は同一の先祖を持つ血縁集団=部族、氏は部族の中でも職業や住む地域などでさらに細分化したもので、氏が身分や地位を表すものであったとされる。
また、后羿の出身である有窮は古代中国においては東夷とされる。
再三みられる夷という文字から、后羿は異民族の野蛮な者で、それが野蛮に正統王朝の簒奪をしたから国も荒れたという単純なストーリーを思い浮かべそうになる。
ただし、東夷は夏王朝の中央の民族である「華夏族」の起源でもあるとされているように、夷という言葉が蔑みの言葉を持つようになるのはもう少し後の時代であり、この時代では単に「中央と比べた外部」という意味合いを持つ程度と考えられる。
孟子は伝説的な聖人である舜を東夷の人、周の文王を西夷の人であるとしているし、『史記』でも禹は西羌で興った、としている。
羿は尭の時代においても「東方の天帝である俊が太陽となる息子を10人産み、堯の時代になってその息子たちが一斉に現れて地上が灼熱と化したので、俊は天から神である羿を使わせて9個の太陽を弓で射落とさせた」といった英雄譚がある。
この輝かしい英雄譚で現れる羿と、夏時代の簒奪者である后羿は別人であるとも、同一人物とも言われている。
后羿にはこういったプラスな背景はあるにしろ、いずれにしてもゆかりがある土地は東方であり、血筋は帝の系譜である黄帝とはどうやっても結びつかない。
本人が徳を持って治世を施したわけでもないので、后羿が簒奪して作った窮国は夏王朝に取って代わるものではなかった。
『竹書紀年』によれば后羿・寒浞の治世は40年前後あったようだが、『史記』で触れられていないのも正統な系譜にとっては取るに足らない異物程度だとされたのだろうか。
それでも正統な王朝から政権を奪い取れはしたが失敗した中国伝説上、おそらく初めてのケースで、後世への影響も大きいように思う。
夏王朝の滅亡~殷王朝の成立
寒浞から政権を取り戻した夏朝の正統な帝・6代目少康の後、しばらく夏朝は平穏な治世を続けていくが、14代目の帝・孔甲は”鬼神を好み、淫乱”と、暴君であった。
このあたりから諸侯は夏朝から離れていくようになる。
その数代先、17代目の桀が夏朝最後の帝となる。
桀王は徳を修めず百官を武力で痛めつけていた。諸侯の一人である湯王は桀王の暴政に耐え、徳を修めることに努めたので、諸侯は湯王に従い、遂に湯王は兵を率いて桀王を伐ち、殷(商)王朝の始祖となる。
これが中国伝説上最初の放伐になる。
ここで気になるのは湯王の血筋である。
『史記』殷本紀の中で、湯王の13代前、殷=商の祖として「契」という人物が挙げられている。
契は五帝の一人である嚳の次妃・簡狄から生まれた、嚳の子である。
すなわち、湯王も大元を辿れば黄帝にいきつき、帝となるに相応しい系譜となる。
一方で、殷からは実在が確実視されている王朝なだけに、歴史的資料も残り、実際のところも垣間見える。
殷代の甲骨文から王族の祖先祭祀として祀られていたのは、湯王から6代前の「上甲」からという。
殷本紀に挙げられている「契」から「振」までの殷の系譜冒頭7名に関しては甲骨文字に一人も見つけられておらず、後世になって殷の末裔を主張する宋の皇族が、殷王朝を始祖神話と繋げるために、殷の滅亡後に追加された神話なのではないかと考える説もある。
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疲れたので今回はここまで。
資料の少ない后羿について躍起になって調べてしまったのが少々失敗だったかも、と後悔している。
逆に資料も多く、明らかに以降の中国史に影響の強い黄帝前後をもっと深める必要があったと思う。
色々と稚拙とは思うが、現状では古代中国からの歴史の概観を勉強しながらのメモ書き程度として、後日この記事も適宜詳しく加筆修正していきたい。