『インフェルノ』旅は良いものだ。たとえ「青年時代の特権」はとっくの昔に失効していたとしても。

社会人になる直前の最後のモラトリアムとなる春、生まれて初めて飛行機に乗った。一人だった。
行先はバンコク。そこから北上しながら、約三週間のタイ王国彷徨。
 
貧弱すぎる英語力にも関わらず、滞在中に語学力不足で困った記憶はほとんどない。身振り手振り、土地名の連呼、それに魔法のタイ語「マイペンライ」があればどうにかなった。
荷物はさして大きくもないリュックサック一つだけ。
 
二十二歳の放浪青年に対し、必ず誰かが優しく手助けしてくれたあの頃。
それは数か月後にアジア通貨危機を迎える1997年3月のことであった。

幸運な時代

今になって思う。本当に「幸運な時代」であったと。
しかし、その論拠は「タイ経済成長の時代」に恵まれたというようなちっぽけな幸運ではない。
古今東西すべての青年に無条件に付与される「青年時代の特権」を存分に行使できたという幸運なのだ。

イタリア、フィレンツェ

この旅を機に、モラトリアム終了後の長期休暇はもっぱら海外一人旅に費やした。
二十代の主な行先はアジア、アメリカであった。
三十代のそれはヨーロッパに変わった。
試しに訪問国を数えた。漏れがなければ31か国となる。
 
上記のような身の上話をする機会があると、必ず聞かれる問いがある。
 
「一番良かった国はどこ?」
 
順位をつけることは難しいし、問いを受けた時々の年齢、思考や感情、境遇などに左右されるのだが、ここ十年は「イタリア」と答えることに決めている。
実際、一年以上住んだことのある二つの異国を除けば、最も累積滞在日数が多い国である。百日には満たないが、その半分くらいには達しているだろう。
 
さすれば次の質問をも頂戴することになる。
 
「イタリアの中でも最も好きな街は?」
 
イタリアの街はどれも素晴らしく、時間と財力と体力が無限であれば、何度でも訪れたい街ばかりである。
これもやはり、質問を受けた状況によるのだが、ルネサンスの中心地である「フィレンツェ」と答えることにしている。
 
だが、時間と財力と体力が無限であるはずもない。
この先のこれらの三要素を考慮すれば、イタリアにはあと三度行ければ御の字である。流石に四度目は厳しそうだ。
となると、フィレンツェにはあと最大二度というのが現実的な目標となる。
ゆえに、イタリア、あるいはフィレンツェへの貴重な訪問機会を最大限に堪能したいというのが人情である。

三都物語

能書きが長すぎた。
 
先日、とある文庫本が目に付いた。
タイトルも著者名も聞いたことがあったが、内容は全く知らない。
 
しかし、表表紙にダンテ・アリギエーリの横顔とアルノ川北岸に展開するフィレンツェ中心部の写真がある。ゆえにフィレンツェ関連作品であることは間違いなさそうである。
上記の能書きに基づき、手に取ってみた。
 
『インフェルノ』(ダン・ブラウン、角川文庫)は(上)、(中)、(下)からなる長編ミステリーである。
(2013年の作品なのだが、2020年以降の読者の中には新型コロナウイルスと関連付けて語る向きがあるだろう。が、それは他の誰かにお願いしよう)
 
(上)では、主人公であるロバート・ラングドン教授(宗教象徴学専門のハーヴァード大学教授)らのフィレンツェでの逃亡劇を通じて、フィレンツェの名所旧跡に関し、『地球の歩き方』には掲載されていないような興味深い蘊蓄を楽しめる。
ただし、命からがらの逃亡中の描写の割にはあまりにも饒舌過ぎ、逃亡の緊迫感を削ぐことは否めない。
例として、以下にボーボリ庭園における二つのシーンを抜粋するが、終始この調子ではある。

「穏やかに落下する水しぶきを見て、ラングドンはそろそろ着くころだと思った。
(中略)
いま見ているのはボーボリ庭園で最も有名な噴水池で、ストルド・ロレンツィの作とされる、三叉の槍を握るネプチューン像が据えられている。不届きにも地元の人々から“フォークの噴水”と呼ばれるこの場所は、庭園の中心部と見なされている。」

「ふたりは休みなく進み、半ば走るように急勾配の土手をおりた。
(中略)
そこを抜けて、ラムセス二世のオベリスクと、その下に据えられた不運な“芸術作品”の前を通った。ガイドブックによると、それは“ローマのカラカラ浴場から運ばれた石の大水盤”らしいが、ラングドンにはそれが本来の姿どおりにしか見えなかった-世界最大のバスタブだ。こんなものはどこかへ移さなくてはだめだ。」

続く(中)では第二の舞台となるヴェネツィアが現れ、フィレンツェ同様に観光案内風解説を楽しめる。しかし、(上)から続く、ストーリーの主軸となる逃亡劇が長すぎ(物語上ではたった一日なのだが)、マンネリ感が生じ、停滞を迎える。
この時点における、私の当作品評価は「良質なイタリア旅行案内本」という程度であった。
 
ところが、(下)に入り、唸るような最初のプロット(著者が読者を欺く)が披露され、さらに(上)、(中)で伏せられていたトリック(登場人物間の欺き)が次々と明らかとなる。
特に最初のプロットは、映像化不能の「活字芸術のみが使用可能な手法」の一つである。
(ただし、当作は映画化されているので、このプロットは映画においては上手く処理されているのだろう)
一人称で語られる文章、つまりは主語を私(あるいはI)と描写したとき、それは誰視点による描写なのか、ということになるのだが、読者は無意識にその前段の描写の主体に引きずられるのだ。
 
そして、舞台は第三の都市に移り・・・
 
と、ミステリー小説につき私が書けるのはここまでである。

さあ旅を続けよう

フィレンツェには三度か四度、ヴェネツィアには二度か三度訪れた。そして第三の都市には2002年に一度だけ訪れ、本作における最重要地点をも踏んでいた。
フィレンツェにもヴェネツィアにも、あと最低一度は訪れることができるだろう。是非、作品中の各スポットを巡りたい。
加えて、望外に、第三の都市への再訪の思いも芽生えた。
 
旅は良いものだ。
たとえ「青年時代の特権」はとっくの昔に失効していたとしても。
有限である時間と財力と体力をやりくりして、何度でも味わいたい。

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