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お寺を「ひらく」の不自然さ

開かれたお寺を目指す。

あるいは、敷居の低いお寺を目指す。

はたまた、お寺の敷居を下げるとか。


仏教界でよく聞かれる「お寺の目標」だ。


けれど、私は、一度も思ったことがない。なんて言うのは、手垢のついた言葉が嫌い、という私の天邪鬼さ故かもしれないが、冷静に考えて、これらの言葉に「実態」がないと感じるのは私だけではないはずだ。


開かれたお寺があれば、閉ざされたお寺があるだろう

敷居の低いお寺があれば、敷居の高いお寺もあるだろう


で、具体的には?

「〇〇寺は開かれている」という、理想的に開かれたお寺はあるだろうか?

「△△寺は敷居が低いよね」という、理想的に敷居が低いお寺はあるのだろうか?


理想を掲げる上で使いやすい言葉ではあるのは間違い無いのだけれど、実際にそんなお寺まるで思いつかないんじゃ無いかな。

ふふ。

「いやいや!〇〇寺は本当に開かれてて敷居が低いから!!」って声も聞こえてきそうだ。でも、ちょっとまって、その私が知らないお寺は、少なくとも私にとっては今の今まで閉ざされていたし、いきなりそこへお参りするには敷居が高い。


ちょっと言葉遊びじみているけれど、開かれているとか、敷居の高低とは、そんなことでしかない。


なので、私は使わないようにしている。


実態のない言葉は、問題を霞め、課題を先送りにする。

日常会話でよく言わない?

何かにつけて「難しい問題ですね。」って返事。

あれは「問題霞め」の最たるものだ。私は絶対言わない。


話がそれた。戻る。

お寺の開閉、敷居の高低、これらが霞めている真の問題とは何だろうか?


私が住職となって、現場で、肌で感じたことは「お寺に来る人は決まっている」ことだった。


決まった人々は誇らしく、口々にこう言う。


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23歳のある日、私は住職になりました。突然のことでした。それからはや7年。何を考え、何を目指し、何を成して、何を失敗し、どこへ向かうのか。…

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