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本の風景「アカシヤの大連」清岡卓行(1970年)


終戦

 1945年8月15日終戦。中国全土に暮らしていた日本人の生活は一変した。家を追われ、捕虜収容所に送られた。帰国のめどが立たないまま、劣悪な環境の中、多くの子供や赤子が死んだ。過酷な集団生活は1年に及んだ。
 しかしこの時代、「大連」(だいれん)の日本人は比較的自由で、特に土木工学系の仕事に就いていた家族は優遇されていた。そこでは、三年間ではあったが、日本人の子弟向けの「大連日僑学校」も開講されていた。後に「分光学者」として著名な「岡武史」氏は、その学校で「非常に影響を受けたのは作家の清岡卓行先生です。英語と数学を教わりました。放課後に文学も教えてくれて、エドガー・アラン・ポーの詩は素晴らしかった。今でも暗唱できる僕の宝です」(『時代の証言者』読売新聞2023・11・17)と、述懐している。

アカシヤの大連

アカシヤの大連

 彼は22才の大学生で、「奇妙に抽象的な憂鬱」に悩んでいた。悪化する戦況の中、彼の友人たちは学徒動員で戦場に向かった。しかし、彼は徴兵検査で、胸の病気と勘違いされ、「即日帰郷」となっていた。そのうしろめたさといずれ来る召集令状の死の約束が彼の憂鬱を深めていた。彼は、「臨時の隠遁へ希望」をもって、三月、ふるさと大連に帰る。大連は美しかった。特に五月、「並木のアカシヤが一斉に花開き」、町全体が「悩ましく、甘美な白い純潔のうちに疼く・・・清らかな夢のようだった。大連には空襲も、何よりも飢えはなかった。
 そして、終戦。しかし、大連は、「それ程悲惨なものではなかった」。
 その中で彼は彼女と出会う。彼女は美しい人だった。20歳の彼女の匂やかさは、「美しい音楽に深く感動するような」想いを抱かせ、「広場の中にふしぎな花がポッカリ咲いた」ようだった。
 「あゝ、きみに肉体があるとはふしぎだ!」。
 アカシヤの花のあの感動は、彼女への愛のエピローグだった。彼の憂鬱の哲学は溶けていった。そして、二人は結ばれる。物語は、引き揚げ船による新婚旅行から、「彼女の知らない日本」へとひき繋がれていく。

清岡卓行


清岡卓行

 清岡卓行(1922~2006年)は、中国大連で生まれ、高校、大学を東京で過ごす中、1945年3月、作家自身が語るように、「戦争で死ぬ前にもう一度見ようと思った大連」へ帰った。そして終戦。大連で結婚し、妻と二人引き揚げてきた。その後、プロ野球日本野球連盟に職を得て、セリーグの試合日程などの業務に長年携わる。このころから並行して、詩や評論を各誌へ発表し始めた。その後、法政大学フランス語教授となった。1968年、46才の時、最愛の妻を病気で失う。翌年発表された二作目の小説『アカシヤの大連』が「芥川賞」受賞となった。「朝の悲しみ」「フルートとオーボエ」、さらに二作を加え、妻と大連の過ぎ去った日々と現在の日々をつなぐ物語が「五部作」として描かれた。

詩人

 清岡卓行は、「小説家」である前に「詩人」であった。1954年、32歳の時、詩集「氷った焔」に「石膏」が発表された。「氷つくように白い裸像が/ぼくの夢に吊るされていた/・・・その顔は見覚えがあった/ああ/きみに肉体があるとはふしぎだ」
 そして、妻の死によって、この詩が『アカシアの大連』に浮かび上がってくるのだった。失われた時間と、今の時間を紡ぐ新な「物語」が、詩人の彼には必要だった。その詩は、妻の死を経て、再び呟かれる。これは、「私」の物語なのだが、そこにはナルシズムも卑下(道化)も存在しない。アカシヤの美しさに似た妻の美しさが、「今」の日々を支える。「アカシヤの大連」において、彼と彼女の物語は、全体の10分の1にも満たない。にもかかわらず、これほど美しい愛の物語は例をみない。(大石重範)

(地域情報誌cocogane 2024年4月号掲載)

[関連リンク]
地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)

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