100冊の本をダウンロードするよりも1冊の本をインストールしたい。

当たり前のことかもしれないが、ダウンロードとインストールは違うことなのだということを最近気付いた。

何かのソフトをPCにダウンロードしても、それをインストールしなければ、そのPCの機能は何も変わらない。

単にHDの容量を使うだけ、である。

ダウンロードした後、そのファイルをクリックするとインストール手順に移行し、インストールを完了して初めて、そのソフトが使えるようになる。

PCに何かをダウンロードするということは、そのソフトやデータを使いたいからなので、それをインストールしない人はほぼいないだろう。

しかし、これを人間に置き換えると、ダウンロードしたままでインストールしていない人の方が多いような気がする。

本を読んだり、誰かの話しを聴いたりしても、「事柄」や「単語」という表面的なことだけを覚えて満足している人は、違う本や人から、同じ単語を聴いたり接した時に、「それは知ってる」とよく言いがちだと思う。

ある人と、読んだ本についての話をしようとしていた時、最初の段階で「それはあまり参考にならなかった」と門前払いされてがっかりしたことがあった。

その人は自分の経験や知識の範囲内でその本の内容を表面的にこそぎ取って「理解した」という気になっており、その背景やそこで用いられている単語の特殊な文脈のようなものへの解釈には取組んでなかったのだと感じたからだ。

ちなみにその人は、別の本を読んでいたく感銘を受けていたが、

その本に書かれている内容は、私が門前払いされた本の一部について別の表現で書かれたものに過ぎず、他にも何十冊も別の著者が書いた、似たような内容の本を読んだり、様々なセミナーに通っていたのだ。

それでいて、それらの本から抽出される思考の型というものを自分の仕事や生活に応用している様子はなく、同じような失敗を何度も繰り返していた。

その時ふと、

「この人は単に脳に情報を突き刺しているだけかもしれない」と感じたのだが、これが、ダウンロードだけ行ってインストールしていない状態なのだと思う。

言葉の文脈の解釈に取組み、自分の身近な事例にそれを当てはめてみるという抽象と具象の往復は、何かを学んで自分に取り込む時には不可欠な情報処理だと思うが、それをやらないと「脳に情報を突き刺しては次の情報を求める」という苦行のループに陥ってしまうことをその人から学んだ。

そういえば学生時代、同じ参考書を何冊も買う人がいたが、その人はまさにダウンロードだけで満足してしまうタイプだったのだろう。

PCと違い、人間の場合はダウンロードとインストールの境い目が曖昧なのが厄介だと思う。

同じ参考書を何冊も買う人以外は、本の中身を読むという行為を行っているので、「読書=インストール」と思い込んでいる人も多いだろう。

私は、インストールとは自分の日常の中でツールとして使えたかだと思う。

特に、一見本の内容と無関係な場面で、その本の内容の中で自分が印象に残った事が結びついて、その場における自分の思考や反応に自分が望んでいたパターンが実現できた時に、ツール化ができたと考えているが、

インストールとは、こうしたツール化を発現していく土壌の開拓であり、「脳に情報を溶かし込む」過程と言えよう。

100冊の本をダウンロードだけしても意味がないと思う。

それよりも、1冊の本からインストールした方が遥かに有意義ではないか。

インストールまで行うには、その本と自分自身との対話を往復で行うことが必要だと思う。

以前、シニフィアンとシニフィエの話を書いたが、シニフィアンという記号表現とシニフィエという記号内容の対応関係とその個人差というものは、とても興味深く、そこに関心を持てば自ずと対話になっていくのだと思う。

それは感覚的なものではあるが、食べるという行為は対象との対話を行う最も効果的な方法の一つだと思う。

私は読書の量は少ないが、どうやら物を食べる時に読書量の乏しさを補完するようにしているようだ(この投稿を書いていて気付いた)。

それは、私にとっては読書も食事も、シニフィアンとシニフィエの往復という情報処理構造を持つという点で同じであると感じているからだ。

甘いや辛いといった味覚を表すシニフィアンを感想として考えながらも、それら味覚の自分にとってのシニフィエを味わっていく過程もまたインストールなのだと思う。

面白いことに、読書していて、「この表現はあの時食べた料理のあの辛みに似ている」と味覚とリンクすることがあるが、

これは、食事におけるインストールが比較的上手くいったからなのだと思う。

レストランに行くと、スマホの画面を見ながら食べる人がいるが、あれは食材や料理を作った人に失礼だと思うし、折角のインストールの機会をダウンロードだけで終わらせてしまう点でも非常に勿体ないと感じてしまう。

一つのインストールを完了させれば、多くの事柄のダウンロードは不要になるだろう。

ダウンロードする対象を絞れば、脳内HDの容量も節約できるし、

その分スッキリとした気持ちでインストールに集中できる。

「断捨離」という言葉は、インストールに向き合うということなのかもしれないと思い、最近は部屋の整理整頓を始めたが、

あまりに多くのものをダウンロードだけしてきたことに反省している。

インストールとダウンロードの違いを意識することで、「これはインストールしなくてもいい」とか「同じようなものをインストールしたかも」といった感覚で、未インストールのダウンロード物を手放すことが容易になることを実感している。

更にはその延長線上で、「今の自分にとって必要なものは十分に足りている」という「足るを知る感覚」も養われていくものかもしれないと思っている。

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