恐い事をやるために嫌な事を再定義する

前回、「嫌な事を止めて恐い事をせよ」という格言の価値の大きさとその効果の実体験について書いたが、

この僅か13文字の情報が、次から次へと自分の中で新たな気付きと行動をもたらすようになっている。

それはさながら、一つのZIPファイルだったものが、次々に別のZIPファイルに分裂していくかのようである。

そのお陰で、実に面白いほどに、「今まで習慣化していなかった恐い事」に着手していけるようになった。

まるで、「恐い事をやる祭り」のように、毎日新たな試みに取り組むようになったのだ。

そんな中、ふと大事な2つのことに気付いた。

一つは、

「恐い事とは嫌な事を止めるための必要経費である」

ということだ。

嫌な事を止めるのは、好きな事に時間と労力をより多く注げるようにするためではあるが、そう願うだけでは何も変わらない。

多くの嫌な事をやり続けているという現状があるのならば、それは即ち嫌な事をやり続ける状況が今の自分の設定になっていることだと言えよう。

人は、好むと好まざるに関わらず「現状維持システム」の影響下に置かれていると考えているが、

その引力から解放されるためには、現状維持システムの範囲外にある「恐い事」に取組む必要がある。

ロケットが大気圏内の重力を離脱するためにロケットのエンジンという強力な推進力を生むためのシステムと、そのシステムを作動させるための燃料が必要である。

現状維持のルーティンから脱することもロケットの打ち上げと同じで、嫌な事をやめるための新たなルーティンを生む「恐い事をやるシステム」と恐い事をやり続ける燃料

それは「嫌な事の定義を行うこと」である。

今までは「嫌な事」とは、例えば、「理不尽な事を我慢させられる」とか「社交辞令的な飲み会に出る」などのイベントであったり場面を思い浮かべていたが、

実は本当に嫌なこととは、そうした場面の中で自分が嫌な感情や思考に囚われ続けてしまい、嫌な出来事の中でも瞬間的に表れる自分にとって好ましい瞬間を見落としてしまうことなのである。

つまり、出来事から直接的受けるダメージというよりは、そのダメージを自分の中で増幅させてしまって機会損失を発生させてしまうことの方がより嫌な事なのだと気付いた次第である。

今までは外部的に発生する現象が嫌な事の主体だと捉えていたのに対し、最近は自分の内部で展開される、嫌な事を増幅させる情報処理が嫌な事の主体であると捉えることができるようになったのである。

この変化は果てしなく大きいと思う。

何故なら、嫌な事とは苦痛を味わったり我慢したりすることではなく、そこに囚われ続けることだと解釈し直すことで、

如何にそこから注意の持ち方を切り替えるかという活路に自ずと辿りつけるからである。

「激レアさんを連れてきた」というテレビ番組は良く観るが、

私が激レアさん達に興味を持つ理由は、

「好きな事をとことんやる情熱」が尋常でないからであるが、

裏を返すと、嫌な事を一切やらずにその代わりに普通の人がやらないチャレンジ、つまり「恐い事」を果敢にやり続けるその姿に憧れを感じるからである。

恐らくこの番組の視聴率が成り立つ理由は、視聴者にとっては自分がとても出来ない挑戦や冒険をやり遂げたという偉業達成に勇気づけられたいという思いと、その過程で数多く遭遇したであろう恐い事も疑似体験したいという「恐いものみたさ」の欲求が満たせるからではないか。

嫌なことの代わりに恐いことを躊躇なくやっていく手本にしながら、
自分もまたそれを少しずつ真似ていくことで
自分の中でそれを当たり前のことにしていきたい。

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