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仕事とはなんなのか。仕事とは「仕事」なのだ。

 私は現在22歳でスーパーの精肉店のパート員をやっている。月13日か14日出勤して1日8時間労働、日々の生活費や何かしらの返済を差し引いて月々五百円の貯金ができるくらいの暮らしを送っている。
 私の働くスーパーには惣菜、青果、鮮魚、日配、加工食品、レジの部門があり、それぞれ社員はもちろん、アルバイトやパートがいる。私の働く店舗では22歳というのはかなり若く、他は30代か40代の社員、またはパート、定年を過ぎたアルバイトという人々で構成されている。
 私の率直な酷い考えとして、「スーパーに勤務している奴らは軒並みダサい」というのがある。これは明らかに偏見ではあるが、私が22年の人生で見てきた経験から出された意見であるのは間違いがない。
 たとえば、それなりに学校の勉強ができて、稀有な経験や知識があって、多くの友達をもっていて、友人から強く信頼され、恋愛経験が豊富で、リーダー格として何かしらのグループを引っ張ることができて、強くて、賢くて、自分自身をうまく理解(自分というものは理解するのが難しいということも含め)していて、高次なものの考え方ができて(社会の問題に対して受け売りではない意見や比較的新しい切り込み方ができる)、さまざまなことに興味を示して、常に自分を成長させる(できるかどうかではなく)ことを考えて生きることができている人は、
 “私は” スーパーで働こうと思わないだろう。と思っているのだ。
 たしかな情報をもたずにこう言い切るのは良くないことだとは思うが、たとえばスーパーで働いている人と居酒屋で働いている人をランダムに選んだとき、きっと居酒屋で働いている人の方が「つよい(これはなんとかして感じていただきたいつよいである)」と相手に思わせられる人である確率は高いのではないか。という感覚はおそらくあると思う。
 これは是非あってほしい。
 たとえばホテル、アミューズメントパーク、レストラン、喫茶店、ファストフード、コンビニエンスストア、カラオケ(いいねぇ)、ドラッグストア(悪くない)、バー(これはかなりつよい)、ライブハウス(つよい!)、スポーツスタジアムのもぎりやビール売り(つよいなぁ)、百貨店の雑貨屋(つよ!)、楽器屋(つよい!)、古着屋(つええ!!!)でアルバイトやパートをしている人と「スーパー」で働いている人のどちらが、「一目見たときに輝いている感」があるだろうか⁉︎ (多くの人は多くを“一目見ること”をすると思う)
 ええ、もちろん私は冷静で平等な視点も兼ね備えているのでこれが明らかに正しいといえる考え方ではないことは分かる。だがしかし、こういうイメージは結構あると思うのだ。もしも私が数人の女性から恋人を一人選べるような立場にいるのなら、スーパーでパート(惣菜部門)をしている人よりも、レストラン(これはチェーン展開しているファミレスでもいんですよ?)やコーヒーショップで働いている女性を選ぶだろうし、何よりも「選びたい!」だろう。

「ねえ貴方の彼女、そのフリーターの彼女は何処で働いているの?」
①「喫茶店でアルバイトしてるんですよ」
②「スーパーでアルバイトしてるんですよ」
 1だ。迷わず1がいい。
 これは別に喫茶店で働いている人に美人が多いとか、陽気でよく喋って冗談の通じる人が多いとか、喫茶店という静かな雰囲気を好み、文学や芸術的な(表面上であったとしても)ものに興味をもっている人が多いとか、そんなことではなくて、ただただスーパーで働いているということが圧倒的に「ダサい」し「ザコい」からなのである。
 スーパーで働くということは「ダサく」、さらには「ダサそう」に見える人が多いのである。
 私はフルタイムで働いているので午前と午後の間に1時間の休憩をとるが、同じ休憩室で休んでいるパート員や社員は軒並みスマホゲームか電子漫画を読んでいる。おいおい、良い加減にしないか。ただでさえスーパーで働いているのにその休憩時間をつまらぬ娯楽に使ってどうするんだ!
 ええ、もちろんこの理屈は通らない。スマホゲームがザコいとか電子漫画がザコいとか、そういうことになってしまう。さらに私は「休憩時間」の意味をちゃんと分かっていないことになるだろう。正午過ぎから夜にかけて忙しくなるスーパーの仕事の合間に好きなゲームをしたり漫画を読むのは真っ当な過ごし方であり、むしろ頭の良いリラックス時間を作っているではないか。それが熱中できる趣味なのであれば、仕事場での休憩という、半ば拘束的でもあるその時間を有効に使えているではないか。そう言われるかもしれない。
 だが、私はこう言い返したいと思う。

「彼らはスーパーで働いているのだ!」

 と。

 私が働いているスーパーの惣菜部門に少しだけ美人なおばさんがいる。おそらく40手前、もしかすると40代だと思う。褐色の肌で、目鼻立ちがはっきりしていて、耳と口が大きく、顔が小さい。細身で身長も165cmくらいあり、年齢に相応しい控えめな香水もつけている。おそらく多くの男性は彼女を「美しい」と思うに違いない。現に私も彼女に惹かれている部分があり、休憩時間が被り同じテーブルで昼を共にすると少々胸がときめく。このあいだ一緒になったとき、どうでもいいような話題を振ると、彼女は笑顔で応えてくれた。とても魅力のある大人の女性だ。
 ただし、一つだけ彼女の外見で「こわい」ところがある。

 彼女は歯が黄色く歯の表面に粘り気があるのだ!

 oh...Jesus Christ.

 彼女の歯が黄色く表面に粘り気があることと、彼女がスーパーの惣菜部門で一生懸命働いている(まるでそれが人生の意義であるかのように働いているように私には見える)ことは、切っても切り離せない深い縁があるに違いない。また休憩室での彼女の会話(惣菜部門の仲間との会話)を聞く限り、(こんなことは言いたくないのだが)彼女の地頭がいいとは到底思えない。酷い言い方をすれば、低学歴で知識もなく、下らないことを娯楽とし、人生のことなど毛頭考えていない(その考えが一辺倒でつまらなかったとしても)だろうというのははっきりと分かるのだ! もちろん、人の人生は分からないし、安易に決め付けるのは頭の悪い奴のやることであることは重々承知している。だがここではあえて言わせていただきたい。
 ちょっと「厳しい人」であるからこそ歯が黄色く粘り気があり、歯が黄色く表面に粘り気があるからこそスーパーで真剣に働くことが可能なのだと。
 
 しかし考え方は変わる。
 題の「仕事とはなにか」ということを考えるきっかけは、この40歳の、美人ではあるが歯が黄色く表面に粘り気がある惣菜部門の彼女の私服を見たことに由来する。
 先日、私が勤務を終え、店舗の近くのコンビニで光熱費の支払いを済ませると、スーパーの入り口から私服姿の、歯が黄色く粘り気のある美人な彼女が出てきた。私は彼女の私服姿をしっかりを見た。
 はっきり言って彼女の私服は「あまりにも綺麗だった」のだ。透け感のある上品で落ち着いたネイビーのブラウスに黒いタイトなスカート、光沢のあるヒールに黒い小さなポシェット。無駄な色を落とし、全身をダーク系で統一し、その細身を活かすような見事な服のライン。そしてヒールを履いているということは、日常から「美」を意識していると思わせられる。(たかだかスーパーで惣菜を作るためにヒールを履いて通勤するだろうか? なんせ日中ずっと立ちっぱなしで揚げ物を作っているのだ......。しかし、これは酷い意見だ)40歳(予想)の美人な女性が若い人にお手本を見せるかのような、素晴らしい一線の画し方(画しているかのような歩き方)。彼女のその「まるで私はスーパーの惣菜部門で働いていないのですよというようなセンセーショナルな私服姿」これに私は目を奪われてしまったのだ。そして、私がスーパーで働く人達に抱いていた酷い考えが覆される可能性をそこに見つけたのだ。
 スーパーで働く、スーパーで仕事をするということは、つまり「仕事」をするということであり、仕事とは何のことなのかというと、それはつまり「仕事」なのではないか、と思ったのだ。
 その「仕事」をするための「仕事場」がたまたまスーパーの惣菜部門であったというだけのことに過ぎず、それが喫茶店でもカラオケ店でもバーでも、なんなら死体を素手で片付ける仕事でも、それが「仕事」である限りそれは「仕事」に過ぎないのではないか。と思ったのだ。

 18歳から20歳までの2年間をスーパーの惣菜部門で、21歳から22歳現在までの1年間をスーパーの精肉部門で働き、それなりの給料を貰い、とりあえずはある程度の生活と、月に一回大好きなインドカレーを食べに行けている私は、自らが「ダサい」や「ザコい」という印象を持っているスーパー内で仕事を与えられ仕事しているということにはなるが、その仕事をいうのはつまりは「仕事」に過ぎず、それは“私の思う仕事”とは大きくかけ離れた「仕事」なのだと結論付けることができると思うのだ。

“私の思う仕事”とはなんなのだ。

 しかし、それでもスーパーで「仕事」をすることが「つよさ」や「まともさ」(ある意味では味気なさという意味での普通さ)の証になることはなく、スーパーはいつまで経っても「行けば物が置いてある場所」の肩書きを拭い去ることはできず、そこで働く者たちは「行けば物が置いてある場所に、行けば置いてある物を置くだけで生きている人々」という部分を捨てることはできないだろう。(だって働いているのだから)
 客のほとんど(これは現代人という言い方もできるだろうが)は、スーパーに行けば牛豚鶏の肉が調理し易いサイズでパック詰めされて置いてあり、骨の取られた魚の切り身や洗わずに食べられる野菜が置いてあり、名前のない料理人が毎日同じ時刻に同じ手順で作る揚げ物や簡易的な弁当が置いてあることを不思議だと思わないだろう。だが実はそこにはスーパーの名前のない料理人をはじめ、食材を運ぶトラックの運転手や、工場で食肉を解体する人々や、食肉と呼ばれることになる家畜動物たちの首を切ったり、電気を使い屠畜する人々や、おそらくは、それなりに愛情を込めて動物を育てているであろう人々がいるのだ。
 とはいえもちろん、それら大勢の人々の顔を想像して目の前の鳥もも肉を唐揚げにする必要はないし、スーパーの人々の「仕事」を称える必要はない。揚げ立ての唐揚げの前でいちいちそんなことをしていては美味いものも冷めて美味くなくなってしまうだろう。さらに、それはスーパーでの買い物に限ったことではなく、この世の中のどんな場面でも言えることに違いはない。
 私も今、行けば物が置いてある場所で買ったサッポロの酎ハイ「99,99」とフリトレーの「マイクポップコーン」を何の考えもなくバカな顔をして貪っているのだから。

 さあ明日も、行けば物が置いてある場所に物を置く仕事みたいなことをして、日々を生きていかなければならないし、この文章の多くが比喩であることは言うまでもない。

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