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【感想】 『誰かが、見ている』を見ていない。

 2020年9月18日に配信された三谷幸喜脚本・演出、香取慎吾主演の『誰かが、見ている』を見ていない。見ていないので感想を書いていく。(※一部ネタバレを含みます)

 本作品の感想を書く行為は私にとってはかなり辛いことで、今も手が震えてキーボードを上手く打つことができない。動悸もいつもより13回ほど速い。本作品は私に大きなトラウマを与えた。現代的に言えばPTSDというやつだ。戦場を経験した兵士たちはこんなにもキツい病を背負ったのかと考えると、やはり戦争においての国と国の対立には善も悪もないのだ。ということが改めて実感できる。

 皆さんもよく目にしていたと思うが、YouTubeの15秒広告で流れていた「気になってる〜♪」という歌の「気になってる〜♪」部分だけが今も頭の(主に前頭葉集中狙いで)中で永遠にリピートされている。私の感覚では「気になってる〜♪」は一回だいたい3秒弱、一分で20回、一時間で1200回となり、睡眠時間を引くと(幸運なことに睡眠中、夢の中では気になってる〜♪は流れていない。つまり気になっていない。最近奮発して買った7800円のマットレスが活躍しているのだろう。〈教訓、寝具は良いのを使おう〉とはいえ、入眠する寸前までしぶとく流れ、起床のアラームを認識したと同時に流れてくるので、安眠できているとは言い難い)、一日18時間で21600回の「気になってる〜♪」を聴いていることになる。正直、この状態がいつまで続くか分からないのであれば、今すぐにでも前頭葉破壊(ロボトミー)手術を受けた方がマシなのではないかと思えてくる。

 とはいえ、その代償を払ってでも、つまり一日18時間で21600回の「気になってる〜♪」を聴くことになるとしても、本作品を観る価値は充分にあると思う。

 まず、この『誰かが、見ている』は多くの人が本作品に最初に抱くイメージと全く逆のモチーフを(結果的に)提示していた。だからこそ、私は心に傷を負ったわけだ。三谷幸喜監督作品を知っている人はもちろん、知らない人でも予告やパッケージを一目見れば、これは王道のドタバタコメディで、そのタイトルから現代社会の主にSNSにおける「見る、見られる」構造に対する面白可笑しいカリカチュアだと察するに違いない。例えば『誰かが、見ている』の見ている誰かとは、我々観客の事を指しているのだろう、快適な部屋でスナック菓子を貪りながら愚かしく画面を見るだけの受動的な態度をメタ的に批判しているのだろう(なるほど、だからAmazonプライム・ビデオでの配信限定なのだという気付きも付いてくる)だとか思うかも知れない。最近特に話題になっているSNSでの匿名での誹謗中傷、失言等への警鐘云々がテーマだろう。と思うかも知れない。

 だが、そんな軽薄な予想を本作品は優に超えてきた。実際に私も『ブラック・ミラー』(作品の構造として)や、ジェームズ・ポンソルト監督、エマ・ワトソン主演の『ザ・サークル』(批判対象の同一性から)や、(この香取慎吾の格好やシチュエーションから想起されるように)松本人志監督・主演の『しんぼる』的な鋭い皮肉の数々をふんだんに羅列した不条理劇のようなものをイメージした。しかし、むしろそれらが持つサブテクストを更にサブテクスト的に批判し、気取った態度で画面を見ていた私を徹底的に嘲笑してきた。そう。全ての面で三谷幸喜監督は、『誰かが、見ている』は、先手を打っていたのである。(ちなみに、私はブラック・ミラー、ザ・サークル、しんぼるを観たことはない)

 詳しく話すと長くなってしまうし、ネタバレ的な物を含んでしまうので、あまり踏み込みはしないが、軽く触れると、エピソード2では本作は実は三谷幸喜監督作品ではないことが明示され、エピソード3ではウサイン・ボルトの存在が否定され(しかしボルトの世界記録だけは抹消されない。それは実際に観て確かめてもらいたい)、エピソード4では登場人物の一人がエピソード5のネタバレを(エビ柄の台本を持って)解説し始める。そして5を観てみると、4でネタバレされた話は一切なく、9割「猿の惑星」のメイキングの写真で構成されている静止画のスライドショーが始まる(1割は渋野日向子とプールの絵だった)。その後のエピソードも凄まじいものなのだが(予告ではエピソード8で完結となっていたが、実際にはエピソード15まであった)、もうこれ以上書くと本当に自殺してしまいそうになるので、終わる。

 ちなみに本作品に香取慎吾は出演していない(香取慎吾は出演しませんというテロップがエピソード1の開始三十秒で表示される)。


 全体を通して思うのは、映像作品(それも家で暇潰しに観る配信もの)でここまで辛い経験をしたことは未だ嘗てないということだ。正直、本当にこれでよかったのだろうかという気持ちもある。それは自分自身にとってということでもあるし、このような作品が全世界に公開されてしまったことについてということでもあるし、現代社会における芸術というものが(そう、全ての芸術だ)本作『誰かが、見ている』的に人の心に深く入り込み二度と日常生活に戻ることをできなくさせる悪魔的な物としてのポジションを獲得できていないのか。ということについてでもある。そう、芸術の世界では本作が決して珍しいものであってはいけないのだ。本来はこうあるべきなのだ。本来は私が今、味あわされているように、身も心もボロボロに傷付きもう前に進めないのではないかと悩ませられるべきなのだ。自分はこれに打ち砕かれるためだけに世界に用意された土偶なのではないかと思い知らされるべきなのだ。

 今回、『誰かが、見ている』は徹底的にそれをしてきた。私は結局、『誰かが、見ている』の一アイテムに過ぎないのではないかという錯覚に陥らされた。そして、そのような破壊行為が最後のエピソードまで続いたのだ。私は最終回のクレジットで床に倒れ込み、数十回に渡る嘔吐で床に溜まっていた吐瀉物に顔を埋めながら、静かに涙を流した。そして、身体に残された最後の力を振り絞り「誰かが、見ている」と呟いたのだ。

 香取慎吾は私自身であり、『誰か』も私自身なのだ。

 いつか、私も実際に『誰かが、見ている』を見る日が来ることを心から願っている。

 渡辺浩平


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