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地底街20-25-330(八王子入口)について(2)

 寝たきりの母が久しぶりに口を開いた。「琴ちゃん焼きそばが食べたいよ」私は冷蔵庫を開け材料を確認した。人参だけなかったので(我が家では必ず人参を入れることになっていた)私は急いでスーパーへ行き、人参のついでに緑茶とハム類を購入した。帰って早速肉と野菜を炒め、麺を投入し軽くほぐしてから水を入れた。コップに緑茶を注ぎ母の元に持って行くと母は息を引き取っていた。台所から水が蒸発していく音が聞こえて、徐々に静かになっていった。母の横で数分間棒立ちになっていると、部屋に黒い煙が侵入して来た。動かない足を半歩ずつ出してようやくコンロの火を止めると、私は地底街に居た。
『焼きそばを焦がすと地底街だった』相澤琴美

 相澤先生は焼きそばを焦がすと地底街だったらしいが、私の場合は初めて電動歯ブラシを使うと地底街だった。地底街に行くための方法がいろいろ紹介されている本を読んだことはあるが、例えば犬の散歩中にもう一匹犬を買うとか、牛乳を3リットル一気に飲むとか、頭に静電気を流しながら足の爪を磨くとかそんなものだ。〈初めて電動歯ブラシを使ってみる〉というのは珍しい方法だろう。恐らくただ単純に電動歯ブラシを使うのでは歯が楽に掃除できるだけなので、私はその日の朝から偶然に何らかの手順を踏んでいて、最後の電動歯ブラシが地底街の扉を開く決め手となったのだろう。とにかく初めて電動歯ブラシを使うと私は地底街に居た。
 地底街は想像以上に明るかった。火や光で照らしているのかと思ったが上を見上げると青空と少しの雲と太陽があった。外の匂いがあり風があり、午前は暖かく夜になると寒く、そしてちゃんと暗くなって星が出た。街は地上界とほぼ変わらない姿形をしており、地底人が住んでいること以外で地上界との区別をつけるのは難しいと言える。ひとつ可笑しかったのは、街の至る所に地下鉄駅への入り口と案内図があったことだ。地底街での主な移送手段は地下鉄らしく(車や自転車は殆ど見なかった)、彼らにとって地底街はあくまでも〈地上〉の位置にある世界なのだった。
 最初に私が降り立った目の前は二階建てのボウリング場だった。自動ドアから中に入ると少々襟の大きなスーツを着た地底人の集団がボウリング大会をしていた。私が現れると大盛り上がりしていた集団はすっと静まり、こちらを見て少し戸惑っていたようだが、その中の一人がすぐに係の地底人を呼んで、それからは私のことなんか気にもせず再びボウリングに熱中し始めたのだった。
 まずはじめはボウリング場の経営者を名乗る柏原という地底人の男が私を案内してくれた。柏原は私とほぼ変わらぬ165cmくらいの身長で、猛暑にやられた茄子のような、ただ細長いだけの曲がった鼻を持っていた。相澤先生が著書で語っていたのを思い出すと、〈地底人は我々よりも一回り小さい身体だった〉らしいが、私が見る限り地底人は地上人と殆ど変わらない身体つきをしているように思えた。相澤先生は185cm115kgの巨躯だったという話なので、恐らくそういうことだろう。(先生は出不精なうえ、極度のあがり症で担当編集者にすらその姿を見せるのを忌み嫌った。そんな先生が地底街で地底人と30年以上も生活したことを考えると、改めて地底街と地底人達の素晴らしさに感服する)
 もしも貴方が地上人と地底人を見分けたい時はその鼻を見るといい。私が地底街で目にしたすべての地底人は鼻に何らかの特徴を持っていた。そして彼らはその鼻をコンプレックスなどとは一切思っていないようで、他人に笑われるヘンテコな鼻であればある程、誇らしげな表情するのであった。そして地底街生活3ヶ月を過ぎた辺りで、私はその満足気な表情の奥に微量にだが、この世のすべての哀しみを凍らせたような〈哀愁〉を見たのだ。
 私は柏原に言われるがまま地下鉄に乗り、私が降り立った[平和ボウリングセンター]から1駅の[消野(きえの)]まで移動した。地底街の電車には地上では一般的な横に連なった長椅子がなく、プラスティック製の1人用椅子がてんてんと置いてあるだけだった。その代わり天井からU字型のポールが数本伸びていて、乗客はそれに掴まり立っていた。
 《ガガーピーミーピー‼︎ カソンカソ......エッ‼︎ ヴン‼︎......失礼。エぇえ、本日は周具電鉄をご利用頂き誠に有難う御座います。エエ...この電車は周具線各駅停車で運行致します。[平和ボウリングセンター]の次は[消野]......[消野]の次は[まるきど][労工焼(ろうくやき)[新刊(しんかん)][通式(つうしき)団地]終点[鶡麤一鶡(かくそいっぷん)]の順に止まります......アアッ‼︎...とれねぇ......。失礼...尚、[まるきど][労工焼]間ではダイナマイトによる突貫工事が行われているため、想像を絶する揺れが起こる可能性がございますので充分にご注意下さい。ガッ‼︎ ヴ‼︎痛ッテェ‼︎......えぇ...次は[消野]。間も無く消野に止まります............。では、皆さま、心地の良い地下鉄の旅をエンジョイして下さい。Have a nice day‼︎..................ッチ。いつになりゃ......だよ》


 そして[消野]で降りた私は柏原の案内通りに歩いて行き、気が付いたときには、とある整形外科医院の手術台の上に仰向けに寝転がっていたのだ。
2000.4.11 吉内巽

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