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僕の素晴らしい喫煙、セージと広沢。

 高校何年生かの頃、セージという名前のハーブを吸っていた時期がある。肉料理やハーブティー、どこかの国では霊的なものを寄せ付けないために古くから使用されている合法的な植物だ。中学時代に母親に買ってもらった国語辞典の紙(のちに半紙の方が良いと知った)を長方形に切って、丸めた厚紙をフィルター代わりにして、細かく砕いたセージを巻き、ヤマトのり(でんぷんのり)でくっつけて火をつけて吸っていた。

 大抵は一人で吸っていたが、時には小学生の頃から仲の良い親友「広沢」という男と一緒に吸った(優しい男だった)。近くの公園の野球グラウンドに「火の用心」と書かれた古いタイプの赤い灰皿があったので、二人でそこに集合し、小さなパケに入れて持ってきたセージを吸った。真冬の札幌の夜に手袋を脱ぐと、ものの数十秒で手が赤くなり、かじかんだ手が震え、まともにセージを持ってはいられなかった。今にして思うに、あれはとても肺に入れられるような代物ではなかったが、当時の僕らは非日常的なことをしているという高揚感さえあれば、味や気持ち悪さなど少しも気にならなかった。

 20歳になって一人暮らしを始めた。親の目を気にせず好きなことができた。その時僕はセージをやめて、ジャスミン茶を吸うようになっていた。要領は同じで砕いたジャスミン茶の葉っぱを半紙で巻いて吸っていた。今考えるとあれもまともに吸えたもんじゃない。ただ燃えた草から出る煙を吸っていただけだ。身体に及ぼす害を考えると恐ろしくなる。

 セージ、ジャスミン茶を経て、僕はタバコを吸うようになった。20歳から23歳(今年の10月に24歳になる)になるまでタバコを吸っているけれど、いわゆる「タバコを吸っている」みたいな感覚はなかった。常に持ち歩くことはないし、人と一緒に吸ったことはない。どうしても吸いたくなることもない。「吸い方」みたいなものが違うのではないか。と思ったこともあるけれど、どうやらそうではなく、体質的なものだと言うしかない。あるいは思想的なものかもしれない。僕はタバコやお酒は「吸う」とか「飲む」とかではなく「吸うことが可能か」「飲むことが可能か」ということだと思う。例えば、ひどい災害で避難所で寝泊まりしているときとか、テロが起きてどこかに逃げてきたときとかに、タバコを持っている人が近くの人にこう言う。

「タバコを吸いますか?」

 そう訊かれた人は「私は(普段から吸わないので)吸いません」などと答えてはいけない。聞き手はそんなことを訊いている訳ではないのだ。つまり「こんな狂った状況に入り込んでしまった今だけ、この瞬間だけ、あなたは自分自身も狂うことを受け入れますか?」と訊いているのだ。そう。世界が狂ってしまったのであれば、あなた自身も狂ってしまえばいいのだ。そうすれば世界もあなたも同等の位置に存在することになり、世界もあなたも狂ってなどいない。という世界観を手に入れることができる。

 理解できない人もいるだろうが、大丈夫。

 実際にその時が来れば自ずと理解せざるを得ない。


 と、まあこんな話はどうでもいいのだ。

 僕は20歳から23歳の途中までタバコを吸ったり吸わなかったりしている。そして、この頃、何がきっかけか分からないが、タバコを吸っていなかった。2、3週間だったかもしれないし、1ヶ月くらいだったかもしれない。覚えていないくらい気にならなかったのだ。普通の「喫煙者」と呼ばれる人からすればそれは「忙しくて吸えていない」とかでは済まない時間だろう。

 そして、今日。つい2時間前くらいにU -NEXTでセーラームーンを見るともなく見ていた時に、ふと「タバコを吸おうかな」と思い、近くのファミリーマートに行った。雨が降っていたので傘をさして、傘を店の前の傘立てに入れて、入店した。中は空いていて、がらんとしていた。手前のレジには札が立っていたので奥のレジに行き店用のiPadみたいなのをいじっていた店員さんに声をかけた。店員さんが何か言ったが少し酔っていたせいで聞き取れず、とりあえず「227番ください」と言ってSuicaで支払い、タバコを受け取り短パンの後ろポケットに入れて店を出た。傘を取ってさし、車の有無を確認し横断歩道を渡った時に、ハッとした。

 今の店員さんはあの人だったじゃないか──。

 あの人とは、僕が今住むアパートに引っ越してきた当初からそのコンビニで働いている僕と同い年くらいの女性店員だ。眉毛が太くて、関西弁で、一度お釣りか何かをミスした時に気の利く冗談を言っていた人だ。人を惹きつける何か不思議な雰囲気を放っている女性だ。ただ単に綺麗とかではない。タイプで言えば、あれだ、

「子供のとき、例えば小学校か中学校のクラスメイトで、授業中に僕が言った少し唐突で不道徳で倫理観の欠如したジョークにも一人だけ笑ってくれるタイプの女の子だった」という女性なのだ。

 ああ、完全に忘れていた。僕はその女性店員からはタバコを買わないようにしていたのだった。

 彼女は僕がいわゆる「タバコを吸う人」だと思っただろうか。いわゆる「タバコを日常的に吸っている人」だと思っただろうか。タバコをいつも持ち歩いていて、暇があれば喫煙所を探し、煙の漂う中で喫煙者仲間とこの国の過剰になっていく嫌煙社会に対して、下らぬ切り込み方の論議を交わしているつまらない奴のファイルに僕をファイリングしてしまっただろうか。そういった凡庸な喫煙者の中の一人として、その中でも特技も学もない、喫煙すること以外は何の趣味もない田舎出身の芋臭い若者と認識してしまっただろうか。

 そうであれば僕は彼女の誤解を解かなければならない。僕はいわゆる喫煙者ではないのだ。喫煙とは、狂ってしまった世界に、耐え難い非日常の世界に対応するための誰もが使用可能なアイテムであると知っている人間なのだ。と彼女に説明しなければならない。もしも、それをしなければ僕は彼女を失ってしまうことになる。

「子供のとき、例えば小学校か中学校のクラスメイトで、授業中に僕が言った少し唐突で不道徳で倫理観の欠如したジョークにも一人だけ笑ってくれるタイプの女の子だった」女性を一人失ってしまうことになる。

 そんなことはあってはならない。

 ──いや、しかし、もしかすると、こういうことだって考えられる。

 彼女は18歳からタバコを吸っているヘビースモーカーで、今までタバコを購入していなかった常連客が急にタバコを購入したことによって、逆に深く印象に残ったかもしれない。さらに彼女はヘビースモーカーでありながら、タバコとは、喫煙とは、狂ってしまった世界に、耐え難い非日常の世界に対応するための誰もが使用可能なアイテムであると知っている人間だとしたら──そして、僕が急にタバコを買ったことから、僕もその思想を持つ数少ない仲間であるということまで考察する優れた才能の持ち主だとしたら──。

 いや、そうだ。

 そもそも「子供のとき、例えば小学校か中学校のクラスメイトで、授業中にある男子が言った少し唐突で不道徳で倫理観の欠如したジョークにも自分だけ笑ってしまうタイプの女の子だった」女性なのだとすれば、そういった尊い感覚を持っていてもおかしくない。

 万事解決じゃないか。

 僕は自分の迂闊なミスによって、自らの人生の駒を前に進めたことになる。今まで僕を苦しめた僕自身の詰めの甘さが裏目に出て、僕はとても良い流れに乗ることになる。これまでの人生のミスの積み重ねが一気に好転へと向きを変え、僕のうだつの上がらない人生に光ある道が開けるのだ。

 よかった。よかった。ミスをし続けてきて本当に良かった。


ああ、僕の素晴らしい喫煙を招いてくれたセージ。


 そして、なんの成分もないセージに付き合ってくれた親友「広沢」に感謝し、僕はこの文章を書きながら吸っていたアメリカンスピリットの4本目に火を付けた。


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