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現代人類学の基礎体力の『記録』2024年6月号のお知らせ

現代人類学の基礎体力の『記録』2024年6月号を刊行します。発売は6月15,16日の日本文化人類学会研究大会(北海道大学)で初売りします(@出版社ブースの春風社スペースにて)。その後はまだ検討中ですが、通販や電子版で購入していただけるように準備します。

現代人類学の基礎体力の『記録』2024年6月号 

特集(種目):キャプション-写真-民族誌
寄稿:5メートル12分のフィールド 津田啓仁(人類学者 秋田公立美術大学 博士課程)

A5版、20ページ、500円(予定)

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現代人類学の基礎体力(ストレッチ)は、人類学者と必ずしもそうでない人たちを中心に、なにかいろいろできないかなと探索している集まりです。
この『記録』もはじめての試みですが、この運動はゆっくりと続けたいと考えています。


以下では本冊子の特集の「はじめに」にあたる部分を公開します。本書は、以下のような目論見のもとでおこなったワークショップの記録です


『記録』2024年6月号 特集「キャプション-写真-民族誌」はじめに

SNSに投稿された写真を見たとする。その下には文字がある。「週末に京都行って来た!」「#BFF」「私はこの方法で、20代で総資産7000万を達成しました。」……。これらの文字列はすべて「キャプション」だ。

写真が掲示されるときには、たいていなんらかの文字列・説明=キャプションがセットになっている。これは民族誌においても例外ではない。

では、民族誌の写真のキャプションには、なにか特有の作法や規範があるのだろうか? それはなにをどのように説明しているのか・説明してしまっているのか? 
わたしたちが今回探りたいのはこうした問いだ。

民族誌のページの大半を占める本文に比べ、キャプションはあまりに些細なパーツだ。読者がそれを取り立てて検討することは普通ない。キャプションについて指導をしたりされたりすることも、文化・社会人類学近辺ではおそらくあまりないだろう。

「不適当なキャプションはありそう」というなんらかの規範はある、そんな予感がある。
でもフォーマルな規範があるというわけではないだろう。日本文化人類学会の学会誌『文化人類学』では特に指定はない。書籍の場合は、編集者が眉をしかめない限り、著者は何でもできそうだ。

せっかく民族誌を書くのなら。わたしたちはキャプションにもユーモアや驚きがほしいと思う。
味気ない意味の薄いキャプションは、誰が悪いでもないが、なんだかもったいない。その一文は、撮ったときにあったはずの興味・関心を引き出せているだろうか。
ただし、ここでの「意味の薄さ」もまた今回のトピックのひとつになるかもしれない。「薄い」とはいかなることなのか。

民族誌が「表象」ではなく、たとえば「喚起」なのだとしたら。そこでキャプションはなにをどう喚起するのに役立っているのだろう。喚起をうみだす1パーツとしてどのような文が適切なのか。

はたまた、ひるがえって民族誌のなかの写真は、なにを提示・説明しているのか。こうしたことも気になる。
なんらかのかたちの視覚情報を提供していることは明らかだが、写真自体でなにを意味しているのか、判然としないことがままある。キャプションという注釈とセットで、写真の示すものが特定できているのだ。

今回すこし解決=ストレッチしたい問い

▶民族誌におけるキャプションの適切な/適切でない付け方はどのようなものか。自分はそれをどのように書くことになるのか・今どのように書けるのか

▶良いキャプションをつけるための写真とはどのようなものか。それをどのように撮影するべきか

▶民族誌を構成する要素である本文・写真・キャプションは、それぞれがそれぞれとどのように関係づけられているのか