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20 鎌倉時代に仏教が広がったという誤解/日本の仏教が葬式仏教になった理由①


 「日本仏教の歴史の中で、一番、仏教に勢いのあった時代は?」と聞かれたら、十人が十人、鎌倉時代と答えるだろう。
 何しろ、鎌倉時代には、たくさんのスターが仏教界に生まれ、活躍をしていた。法然に始まって、親鸞、栄西、道元、一遍、日蓮など、仏教にあまり興味が無くとも知っている名前ばかりである。
 歴史の教科書を見ても、やはり鎌倉時代が重要視されているのがよくわかる。
 高校の日本史教科書の中で、最も使われている教科書のひとつに、山川出版社の『詳説 日本史B』がある。平成二十七年度版の『日本史B』は、四三八ページとかなりの厚さがある。
 この『日本史B』において、仏教について、どのくらい書かれているかを表にした。

別掲

 これを見ると、仏教について書かれているのは、案外少なく、わずか三六二行である。一ページが、だいたい二十九行なので、ページ数にして十二ページちょっとということになる。
 このうち、三十行以上にわたって解説されているのは、聖武天皇時代の仏教、平安仏教、鎌倉仏教についての三つだけである。中でも、鎌倉仏教について書かれた行数が突出しており、二番目の平安仏教の倍以上の七十行にわたって解説されている。
 そして冒頭に挙げた、法然、親鸞、道元、栄西、一遍、日蓮らの活躍についての説明が大半を占めている。
 例えば『日本史B』において、法然については、次のように書かれている。

 仏教では、それまでの祈祷や学問中心のものから、内面的な深まりを持ちつつ、庶民など広い階層を対象とする新しいものへの変化が始まった。
 その最初に登場したのが法然である。天台の教学を学んだ法然は、源平争乱の頃、もっぱら阿弥陀仏の誓いを信じ、念仏(南無阿弥陀仏)をとなえれば、死後は平等に極楽浄土に往生できるという専修念仏の教えを説いて、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。その教えは摂関家の九条兼実をはじめとする公家のほか、武士や庶民にまで広まったが、一方で旧仏教側からの非難が高まり、法然は土佐に流され、弟子たちも迫害を受けることになった。

 ここでは法然の説いた教えの内容について、その教えを信じた人たちのこと、そしてこれまでと違った教えを説いたことによって法然が流罪になったことが書かれている。
 法然の教えというのは、確かに当時の仏教界において、画期的なものだった。左記の引用の最初に書かれているように、祈祷や学問中心の仏教から内面的な深まりを持つ仏教に変わっていったのは、鎌倉仏教の特徴である。日本仏教が「個人の救済」というものに取り組み始めたと言ってもよい。その先鞭をつけたのが法然なのである。
 それまでの仏教は国のための仏教であり、活動の中心は、国の平安を祈ったり、貴族の病気平癒を祈ったりということだった。人々が仏教に帰依したのは、仏教が霊的な力を持っていることを信じたからである。
 ところが鎌倉時代になると仏教は、個人の心の救済を説き始める。『日本史B』が言うように、仏教が内面的な深まりを持つようになっていったのは、この時代からと言ってもいい。
 そしてこの偉大な祖師方が説いた教えがもとになって、浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、臨済宗、時宗、日蓮宗などが生まれる。

 現代の仏教では、鎌倉仏教をルーツとする宗派が、圧倒的な多数派である。これらの宗派を合わせると、寺院数にして約五万七千ヵ寺、信者数にして約三千六百万人となり、全寺院(七万五千ヵ寺)の七割以上、全仏教徒(四千九百万人)の七割以上となる。
 それゆえ日本の仏教は、思想的にも、活動的にも、鎌倉時代がピークだと考える人もが多い。歴史に「もしも」は無いというが、もしも鎌倉時代の祖師方がいなかったら、これだけ日本に仏教は広まらなかった、と言うことも可能であろう。
 だからこそ教科書も、鎌倉時代の仏教についてが、最も詳しく書かれることになる。

 当然、日本人の多くは、歴史の教科書の影響を強く受けている。鎌倉時代こそが日本仏教の黄金時代なんだと。これが日本人の持つ、日本仏教に対する典型的なイメージだと言ってもいい。

 ところが実際はこの時代、仏教はさほど広まっていなかった。そもそも鎌倉新仏教は、奈良時代、平安時代をルーツとする旧仏教と比べても、勢力の小さなものだった。しかも帰依していたのは、庶民でなく、地方の有力者が大半であった。
 仏教が庶民に広まっていくのは、次の室町時代である。

 現在の日本におけるお寺の数は約七万五千である。あまり知られていないことだが、その八〜九割のお寺が、室町時代の後半、応仁の乱以降から江戸時代のはじめまでの約百五十年間に建立されている。つまりこの時代に、日本の津々浦々、農村山村漁村などすべての地域にお寺が生まれたということである。
 このたった一五〇年間の間に、お寺は少なめに見積もっても五倍以上になり、数で言ったら約六万ヵ寺増えたということだ。
 しかも、この時期に建立されたお寺は、村の寺であり、街の寺である。庶民の寺である。立派な伽藍があるわけでもなく、立派な仏像があるわけでもない、ごく普通のお寺である。

 ちなみに文化庁の資料を見ると明治十年の寺院数は七二五九九で、平成二六年は七三三六一である。約一四〇年の間に、たった七六二ヵ寺しか増えていない。
 明治以降の一四〇年で増えたのが七六二ヵ寺、室町後半から江戸初期の一五〇年間で増えたのが約六万ヵ寺。明治以降の百倍近い勢いでお寺が増えているということである。

 ところが一般的に知られている仏教史では、この時代にはさして大きなトピックが無いのである。
 しかし理由が無ければ、こんなことが起こるはずはない。
 いったいそれは、どんなことであろうか?

 実はこの時代、一般にはあまり語られていない大きな変化が仏教に起きている。そのことが、現代に至る日本仏教の枠組みをつくり、ほとんどの日本人を仏教徒にしたのである。
 この章では、室町時代後半に仏教が爆発的に広まった原因を探り、それが現代の仏教にどう影響しているかを考えてみたい。(続く)

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