必要とされたかった「自分」
今から数年前の、ある夏の日。
副業のような気持ちで始めた「文章を書くこと」が、いつしか本業として大きな軸となり、だいぶ軌道に乗ってきた。
最初は自分から提案をして獲得していた仕事も、今では企業のほうから依頼がくるぐらいには、安定してきている。
次から次へとやってくる依頼、頻繁に光るスマホのメール通知。わたしの返事を待っている人が、こんなにたくさんいる。仕事を依頼してくれる人が、これだけいる。収入も、ようやく人並みになった。
でも。
なぜだか、自分の中の渇いた部分は、あまり満たされていないように感じる。
「わたしは社会からも他人からも、必要とされていない」
「もっとちゃんと必要とされたい」
そう渇望していたわたしも今や、人から、企業から、社会から頼ってもらえている、必要としてもらえている……はずなのに。
それなのに、この違和感は、満たされない気持ちは、どこから湧いているのだろうか。
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2016年に、こんなブログを書いた。
要約すると「誰からも必要とされてない」と感じていたときは、「自分を発信すること」が足りていなかった、という話。
「こんなことができます」
「これをやってきました」
「こういうことが好きです」
「こんな感じの人間です」
まずは自分を伝えないと、必要としているはずの人も自分のことを見つけられない。だから、まずは伝えること。それが重要であるという気持ちは、今も変わっていない。
ただ、このブログを書いた数年後、わたしはまた悩んだ。冒頭に書いた「仕事もたくさんあるのに、自分が満たされていない」という悩みだ。
振り返ってみると、自分を必要としてもらうために必要だった一歩目は、間違いなく「自分を発信すること」だったと思う。そのおかげで、必要としてもらえるようになったのだから。
ただ「満たされない気持ち」を根本から埋めるためには、まだまだ続きがあったのだ。
つまりここからは、先ほどの2016年のブログの続き。
「自分」を必要とされたいわたしが、「自分を発信する」の次に、歩いた道のこと。
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「こういうものが書けます」を積み重ねて実績をつくったわたしは、さらに「こんなものを書いてきました」と発信することで、仕事の依頼が十分にもらえるようになった。
当時はTOEICのスコアを活かした英語学習の記事や、好きな旅行・観光の記事の依頼が多く、それ以外だとちらほらインタビューの依頼も舞い込むようになっていた。
四六時中震えるスマホのメールの通知に、仕事に追われている感じもしたけれど、「必要としてくれているのだから」と思って、休日もなるべく早く返信をした。
ありがたいことに、たくさんの仕事の相談をもらっている。こんなに必要としてくれている。誰からも見向きもされなかった頃のわたしは、もういない。
……それなのに、どうしてわたしの心は満たされていないんだろう。
そんなことを漠然と思いながら日々を過ごすうちに、ある考えが浮かんできた。
「ひょっとして今、必要としてもらえているのは "自分" ではなく、"役割" のほうだからかもしれない」
自分ではなく、役割。
つまり、ちょうどそのテーマの記事が書けるから、もしくは頼みやすいから、ちょっとした知り合いだから、仕事をもらえているだけなのかもしれない。
もっと誤解を恐れずに言えば、ただ「都合が良いから」必要とされているだけなのかもしれない。
もちろん、「都合が良い」と思ってもらえることも、すごいことだと思う。
「誰からも必要とされていなかった自分」からすれば、大きな進歩だ。これだけちゃんと仕事をもらえること。わたしのできることが認知されて、それにフィットした形で必要としてもらえることは、ずっと望んでいたカタチだったはずだ。
きっと、それなりの自己肯定感を備えている人であれば、これで十分なのかもしれない。都合が良いから依頼されるなんて仕事においては当たり前のことだし、それでも自分が選ばれていることに充足感を得ることもできるだろう。
ただこの時のわたしは、どうしても自分を納得させることができなかった。
このままでは自分の渇きが満たされないかもしれない。ずっと「本当の意味で必要とされているわけじゃない」と、自尊心をすり減らしていってしまうかもしれない。
じゃあ、どうすればいいんだろう。
どうすれば、自分は満足なんだろう。
当時のわたしの気持ちを今振り返ると、「もっと "替えの効かない存在" になりたい」ということだったのだと思う。
上辺だけの「マツオカさんにお願いしたい」ではなく、もっと。役割よりもわたし自身を提供できるような、何かを。
とはいえ、仕事において「替えの効かない存在」になることは、なかなか難しい。そこに関しては今も昔もやや冷めた考え方をしていて、「"自分にしかできないこと" なんてない」と考えている。
だから "替えの効かない存在" になることは、ハードルが高すぎる。だとしたら、せめて "代わりがパッと思い浮かばないぐらいの存在" にはなりたい、と思った。
役割が求められている場合は、簡単に代替できてしまう。そうではなくて、自分を求めてもらうためには、何ができるか。
自分の色が強く出ること、もしくは自分だから築ける関係性や空気感を、もっと活かすこと。つまりは「自分だからこそできること」をもっとやっていきたい、と思った。
生きていくだけの収入を得ることは、大事だ。
一方でわたしの「必要とされたい」という渇きを満たすことも、あきらめたくない。
それからというもの、この2つ(つまり収入の担保と自分の渇望を潤すこと)のバランスを取りながら、ずっと歩いてきた。行ったり来たり、バランスを崩したり、そしてまた持ち直したりしながら。
そして今、わたしは『じぶんジカン』というブランドを運営することで「自分だからこそできること」をやっていると実感できている。
ノートをつくることも、自分と向き合う時間を提供することも、わたしじゃなくてもできることだろう。そういう意味では、代替はもちろん存在する。
ただ、この『じぶんジカン』の商品やサービスには「これまでのわたし」が色濃く投影されていて。これだけは、他の人にはマネできないはずだ。
だから今、わたしの「必要とされたい」という渇望は、雨上がりの植物のように、とても潤っている。
結局のところ、自分が納得できるかどうか、だったのだと思う。
何らかの分野で必要としてもらえるようになったとき、それに対して、自分は「自分が必要とされている」と実感できるかどうか。それだけだったのだろう。
それは、自分を活かせていると実感できるかどうか、とつながっている気もする。
わたしは、生来あきらめが悪い。
今回はそのおかげで、自分の「必要とされたい」という渇望を満たしてあげることができたみたい。あきらめずに試行錯誤した、これまでの自分の成果だ。
自分が持つ不満を見つめて、そこを満たしていくために。
渇きやすい部分を、これからも潤し続けていくために。
そんなことを、持ち前の「あきらめの悪さ」で、今もずっと繰り返している。
おわり
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「じぶんジカン」は、自分と向き合う時間をつくるノート達を販売しています。
毎週火曜&土曜に発送します。自分を見つめるきっかけに、ぜひ。
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