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「どこにでも住めるとしたならば、君はどこにすみたい?」

先日、広島は宮島にある小さな水族館に訪れた。

ペンギンコーナーには、沢山のペンギンが泳いだりはしゃいだり、バタバタしたり、昼寝をかましたりしていた。

そんな中にいた一羽だけが、そこについている小さな窓から顔を離さず、ずっと外を眺めていた。

私が逆からその窓を除くと、そのペンギンの顔がドアップで見られた。

「あら、可愛らしい。こんにちは」などと心の中で話しかける。ペンギンは驚く事もなく、私の顔をじっとみている。実に人間慣れしていらっしゃる。

私はもちろん、動物と話せる少女Aでもなければ、心を読めるサイコメトラーでもなんでもない。

しかし、きっとこのペンギンは外に出たいだろうなと思った。

彼は、または彼女は、見た目はほぼ鳥だけれど空は飛べない。飛べない代わりに、飛びまわれるようにスイスイ泳げるのだ。

あの日あの子は、真っ青に晴れた空を見上げて、窓の外に飛んで行ってしまいたかったのかもしれない。

その後、水族館を出ても、ふとあのペンギンの事を思い出しては気になっていた。

彼、または彼女にとってあそこは、あんまりにも狭すぎる世界なんだろう。

私はというと、コロナ前までは年の半分程を海外で過ごし、どちらかといえば「日本に出稼ぎにきています。」といった様なスタンスで、実にふらふらした生活と人生を送っていた。

色々な国を訪れ、転々としていた時に一つ気づいた事が、私は一泊や二泊というような旅行感覚で観光や遊びをするよりも、訪れた国で、ローカルな所で、人と交流し、仲良くなって酒を交わしたりくだらない話をしたりと、あらゆる所で住んでみるように暮らすのが好きだった。

日本では本当に味わえないような出会いが沢山ある。

「色々な物を見てみたい!」という気持ちはもちろんあったのだけれど、観光やイベントや遊び、そういうものは何度も試してみたが、それ自体にはあまり興味がない事がわかった。

そんなことよりも、とにかく人との出会いが楽しかった。友達や、第二の故郷、そして第二の家族のような人達。そんな出会いが楽しかった。大切な人が沢山増えるのが、嬉しかった。

中学生の頃だ。いじめに会っていたとき、再放送されていた「フルハウス」を学校から帰っては毎日見ていた。

その家族、家族のような親友達、そんな
関係に心底憧れを抱いていた。

思えばあの頃から、周りの人間と波長があわなくて、いっそ海外に飛び出したくて、日本では馴染めなかったけれど、世界中にはもしかしたら仲良くなれる人がいるかもしれない。友達ができるかもしれない。そんな事を想っていた。

ある意味あの頃の夢が叶ったのだ。

今となっては世界中に、沢山友達ができた。親友ができた。家族のような人達ができた。

それでも私はまだ、なぜ旅をやめないんだろうと考えた。

答えは一つだった。

住みたい場所を探しているんだと思う。

住みたい場所、住みたい国が見つかるまで、まだまだ私の旅路はつづく。

人間はなんて自由なんだろう。

どこにだっていけるし、何者にだってなれる。

私にはあの日のペンギンと同じ、空は飛べないけれど、どこにだっていける。

そんな大きな羽が生えているのだ。

私が生きている限り、どこにだって飛んでいける。そしてどこにだって住めるのだ。

あの水族館のペンギンは、窓をぼんやりと眺めながら水族館で一生を過ごすのだろうか。

「どこにでも住めるとしたならば、君はどこに住みたい?」


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