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永遠に生きる「徐福」の話

佐賀市と中国・連雲港市は友好都市である。

連雲港市は、「港」という字からも分かる通り、海に面した港町である。
江蘇省連雲港市。人口規模は460万人だ。

江蘇省という省は、長方形のような形をしている。長方形を縦に置いた時、南京や蘇州、揚州、無錫といった有名な都市は、下半分に集中している。長江が長方形の下の方を横断しているからだ。長方形の上半分にある都市は、あまり目立っていない。連雲港がある場所は、長方形の右上の角に当たる。日本での知名度もあまり高くない。

しかし、「港」という角度から見ると、少し違う見え方ができる。連雲港は、ヨーロッパとアジアを結ぶ大陸横断鉄道の東の終着駅となっている。日本や韓国からコンテナ貨物を船で連雲港まで運び、そこから鉄道に切り替えて、ヨーロッパまで輸送することが可能だ。現代でも重要な港湾であり、港町としての歴史も古い。

そして、そんな港町で生まれたのが「徐福」だ。
徐福は、連雲港市の「徐福村」で生まれたとされている。1982年、この地で地名調査を行った際、この地にある「徐阜(xu fu)村」という村が、元々「徐福(xu fu)村」と名乗っていたことを突き止めた。更に、ここには、徐福にまつわるたくさんの言い伝えが残されていたらしい。調査の結果、ここが徐福の故郷として「徐福村」に改名された。

「徐福」は、秦の始皇帝の時代に生きた人物である。

始皇帝といえば、中国全土を統一し、文字や度量衡の標準モデルを定めたことで、その後の中国王朝が中国統治をする礎を築いた。逆の見方をすれば、始皇帝が統一するまでの中国では、文字や商売は地方ごとにバラバラ、異なる神を信じる部族や民族が存在し、各地で異なる儀式や習慣が行われていた。世界は、きっと今よりももっと知らないことであふれ、神秘的だった。

そんな始皇帝は、中国統一後、「不老不死」を求めるようになった。現代から見ると荒唐無稽な話だが、秦の時代の世界だと、不老不死の神や仙人は存在していた。彼らが不老不死の秘薬を分けてくれる可能性も十分にあった。

そして、徐福は、方士だった。
方士は、修行を通して神仙の法術の習得を目指す人々である。行動の吉兆を占ったり病気の治癒など、夢の魔法で問題を解決してほしいという需要は確実にあった。

徐福は、始皇帝に上奏し、自分に不老不死の薬を探しに行かせてほしいと申し入れた。始皇帝は、徐福に童子童女数千人を与え、船で仙人のいる島を探しに行かせた。東の海…、日本に向かったとされている。しかし、徐福は戻ってこなかった。

中国における徐福の話は、これで終わる。

しかし、日本では、これは物語のはじまりである。日本各地に、いわゆる「徐福伝説」が残され、それぞれの土地で徐福が為した伝説が残されている。

佐賀市にあるのもその一つだ。

筑後川の下流、福岡県との県境に徐福が上陸したとされる場所が残っている。そこには、徐福が掘ったとされる井戸や、徐福が伝えたとされるシャクナゲなどの伝説が残されている。

徐福上陸地
徐福上陸地

徐福は、そこから佐賀市北部にある金立山に移動し、不老不死の薬草を探し回り、とうとう「フロフキ」という薬草を探し当てたという話である。フロフキとは、カンアオイのことで、地元の人は「フロフキ(不老不死?)」と呼んでいた。

フロフキ

そこで、佐賀市は、1998年に徐福の故郷がある連雲港市と友好都市締結を行った。徐福を通じたご縁が、約2200年ぶりに繋がったのである。

佐賀市には「徐福長寿館」という施設がある。徐福に関する展示を行なっている全国唯一の施設だそうだ。

そこに行って施設の方に話を聞いた。

徐福長寿館

江戸時代、薬草を研究する学問である「本草学」が盛んになった。その頃から、日本各地に残る徐福の伝説が注目されるようになったらしい。

「本草学」は、中国由来の学問である。徐福はその中国からやってきた。ご当地に自生する薬草と徐福と関わりが認められれば、その薬草に大いに箔がついたのだろう。日本では多くの地域で徐福の伝説が残されている。佐賀には、徐福と現地女性との恋物語まで残っていた。

徐福ゆかり地の不老不死薬

「徐福長寿館」では、来場者にオリジナルの薬草茶を提供してくれる。いただいたのは、カンアオイのお茶だった。まだ少し寒さが残る3月。温かい薬草茶が身体にに染み渡っていく。

カンアオイの薬草茶

こうした薬草については、DNAを分析し、どこから、いつ頃、日本に渡ってきたのか、といった研究が進んでいるらしい。稲作が日本に渡ってきたのち、佐賀にも中国由来の植物が渡ってきているようだ。

DNA研究が進めば、徐福村の子孫と佐賀の人々のつながりが発見されるのかもしれない…。徐福伝説にはロマンがつまっている。

さらに、近くの金立神社では、徐福が神として祀られている。金立神社は、上宮、中宮、下宮からなる。上宮は山の上にあり、恐らくそこにはフロフキがあったのだろう。下宮に参拝し、日中の架け橋となった徐福にお礼を述べた。

金立神社下宮
金立神社下宮

徐福が求めた不老不死の薬は見つかったのだろうか?和歌山県新宮市には徐福の墓があるそうだ。残念ながら発見できなかった可能性が高い。

だけど、徐福の名前は、ずっと語り継がれている。伝説によっては、農耕などの中国の文明を徐福が伝えてくれたことになっている。日本に弥生時代をもたらした当事者といわんばかりの扱いだ。

これはある意味、本当の不老不死といえる。

金立神社には、50年に一度、徐福がたどった道程を辿るお祭りが行われるそうだ。前回は1980年。次回は2030年だそうだ。普通の人生なら、一生で1度か2度しか見れないという貴重な祭り。

これ、徐福が日本に来たのが約2200年前だから、現在までに44回しか開催されたことがない計算になる。まるで、1000年後も、2000年後も徐福の功績が語り継がれているのが大前提となっているかのようではないか。

徐福は、始皇帝を永遠に生きさせることはできなかった。
だが、その存在は、日本で永遠に生きている。

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