明宮嘉仁親王と出雲大神
昭和2年(1927年)第82代 出雲国造、出雲大社宮司 千家 尊統が記した「大社叢書 第四 大正天皇と出雲大社」。
ここに令和6年(2024年)10月1日現在ではインターネットで検索しても出てこない、大正天皇と出雲大神との関係の詳細が記されています。
以前にも児童書の「大正天皇御物語」に書かれていたものは紹介しましたが、同じ昭和2年(1927年)に出版された(非売品と記載)「大社叢書 第四 大正天皇と出雲大社」を著者は参考にされたのではないかと思われます。
千家 尊福は第80代 出雲国造であり、一般的には伊藤 博文の誘いを受けて貴族院議員となり、いくつかの知事も務めたとされている人物です。
しかし実際には明治16年(1883年)には天皇家と深く通じていました。
さらに明治40年(1907年)10月16日の嘉仁親王韓国訪問後の同年12月、韓国皇太子 李垠殿下が伊藤 博文に伴なわれて来日した当時の東京府知事は千家 尊福でした(この時代の知事は国が任命)。
また明治40年(1907年)は、5月10日から6月6日まで「嘉仁親王山陰道行啓」という鳥取県・島根県を訪問されるという一大行事が行われていました。
この際に嘉仁親王は5月27日、現在の島根県 出雲大社町 杵築東にある出雲大社を参拝されていました。
この時、東京から出雲大社に先入りして嘉仁親王をお迎えしてしていた人物も千家 尊福だったのです。
そして朝鮮神宮創建の際、設計者の伊藤 忠太に提供された古代出雲大社の図面「金輪造営図」を受け継いでいた家が出雲国造の千家家でした。
伊勢神宮 対 出雲大社
明治維新後に起きた伊勢神宮対出雲大社について、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より「千家 尊福」の説明を引用させてもらい説明したいと思います。
明治維新後に行われた「神仏分離政策」と伊勢神宮の天照大神を頂点とした「国家神道」の誕生。
その過程で起きていた伊勢派対出雲派の激しい対立は明治14年(1881年)2月に開かれた「神道大会議」での勅裁(明治天皇の裁定)により伊勢派の勝利に終わっていました。
そして、これにより神道事務局の祭神は四柱となり幽界(冥界・あの世)の支配者大国主大神は祀られることはありませんでした。
それからわずか2年後の明治16年(1883年)10月、天皇家からの要請として密かに明宮嘉仁親王の守護神として 出雲大神が中山邸内にお祀りされていたのです。
本日はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました。