見出し画像

すっきりしない

お久しぶりです!
毎週投稿していたところから二週間ごとになり、いよいよ一カ月以上更新が遅れました。
こういうところを直したいです(^o^)/

とはいえそれを自分のなかで正当化している言い訳もありまして。
(こういうとこ直さねば。笑)
…というのも先月は保育士試験の初受験があり、今月からは通信の大学のカリキュラムが本格的に始まりました。

将来日本で幼稚園を開園したいと思っているわたしにとっては初めての日本の保育・幼児教育の学びが始まったのです。

学びの中で思わされるのが偏った理想の追求です。保育士試験のため勉強した内容では特に気になりました。
現場を知らない賢い人たちが表面的に良いと考えること、もしくは誰かから命令されているゴールに向かうための”良い”と映ることを目標として掲げ、それが現場を苦しめ、結果的にこどもを愛し教育したいと思う教育者たちを葛藤させその素晴らしい熱意を削ぐよう導いているように思えました。

法律では、親が教育において第一義的責任を持っているため、保育士や幼稚園教諭は教育の提案をする(例:来週からプールの時間があるのでお家でお水に顔つけの練習してきてください、と言う等)というのは望ましくありません。
つまり、子どもの教育の基礎は家庭だということが記載されているわけですが、どれだけの親御さんがそのことを知っているでしょうか?
最近はトイレトレーニングも保育園に任せる家庭もあります。多くの親御さんが保育園や幼稚園を教育において第一義的責任を持つ場所と考えているのではないかと思うのです。

こういうギャップが多すぎる!!

他にも(グラグラと沸いてくる不服失礼します笑)
こどもの心、感情を尊重するというのも保育方針に記載されています。

が、

こどもの感情に寄り添う、という文言は聞こえは良いけれども親や周りの大人のリードがあって成長できるのがこどもであるとわたしは考えます。そして成長途中の感情に流されず大人のリードに任せればベスト(最善)な方向に進めることこそ彼らこどもの特権なのです。

教育に限らず、法律がおそらく一般市民を尊重し守るために作られたのではなく誰かが得するように作られ改正されているように、国が提唱する保育に携わるルールは本当の意味でこどもを、国の将来の希望を、育てるものでないような気がしてなりません。

世界に、国の動向に目を向けて、大きな視野を持つ必要があるんだなと思わされます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?