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【400字の独りごと】 記憶をもたない女

 記憶を持たない女


 女は、メモをとる。
 昨日したこと、さっきやったこと、今すること、これからすべきことを、ひたすら紙に書き記す。
 「今」以前と「今」以降は、いつもうまく繋がってくれず、記憶は常にさらさらと流されていく。
 あるのは「今」の感情だけで、信じられるのは「今」立っている場所だけで、かつて栄えた遺跡のように、幸福も安定も希望も、残像が閉じたまぶたの裏におぼろげに映る。
 ちいさな文字で埋め尽くされた紙切れの束を、女は肌身離さず持ち歩く。幾度も紙をめくっては、自分が正しい位置にいるかを確認する。それから、大きく息を吐く。
 ある日のこと、女は突然、分身のごとき紙の束をちいさな川に投げ捨てる。理由などない。ただ、説明しようのない衝動に駆られてのことだ。
 ふやけながら流れていく束縛の束を見送りながら、女は口元に笑みを浮かべ、まだ足を踏み入れたことのない街へ向かってゆっくりと歩き出した。


(2008年8月3日)

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