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鬼畜と伝道師/映画「ドアーズ」公開までの茨の道。

なぜいまドアーズかって?
俺が好きだからさ。
他に理由はないぜ。

 1960年代後半、ロックが反体制の旗印だった時代に現れ、大きな足跡を残したバンド、ドアーズ。いまなお多くの人々を惹きつけてやまない危険な魅力に溢れている。後年、フロントマンのジム・モリソンを主役にした伝記映画が製作された。その製作の過程においては、監督と元メンバーとの間に大きな軋轢が生まれていた。

〇時代の寵児、ドアーズ
 ドアーズは、1967年デビュー。キーボードのレイ・マンザレクが、ジム・モリソンの詩の才能に惚れ込み、ジョン・デンズモアをドラム、ロビー・クリーガーをギターに迎えて結成。バンド名はジムが敬愛するウィリアム・ブレイクの詩の一節と、オルダス・ハクスレーの著作からとった。ニーチェやランボーに傾倒していたジムの詩と、ジャズ、ブルースに精通した3人による緊張感あふれる演奏でシーンに衝撃を与えた。「ハートに火をつけて」「タッチ・ミー」などのヒットを放つが、1969年に通称「マイアミ事件」を起こし、裁判沙汰に巻き込まれてからは活動が停滞。ライブ活動を制限される中、1971年にジムが急死。ボーカリスト不在のまま活動を続けたが、2年後に解散した。
 ドアーズの解散を決めた時、どうやってドアーズの音楽を後世に残せばいいかと残された3人は考えた。とくにバンド結成の中心となったレイは、「ドアーズは、最低50年は影響力を持つ語り継がれるべき存在であり、人間はドアーズを理解するだけの知性を備えるべきだ」と考えていた。ロビーとジョンは、ドアーズの存在意義は、ファンと音楽評論家に判断してもらえばいいと苦言を呈したが、レイの決心は固かった。ジョンは回顧録の中で、そんなレイを「伝道師」と揶揄している。1980年、ジムの伝記本「ジム・モリスン 知覚の扉の彼方へ」(著:ジェリー・ホプキンス&ダニエル・シュガーマン シンコーミュージック)が出版された。書いたのはレイではないが、その年のベストセラーとなった。ただ、メンバーの評価は「くだらない本」だった。伝記本の売り上げの影響か、同年、ドアーズのレコードの1年間の売上がデビュー以来最高を記録した。

〇映画「ドアーズ」始動
 衰えぬ人気が追い風となり、1985年、映画「ドアーズ」の企画が始動。コロンビア映画が権利を獲得した。脚本担当に指名されたのは「スカーフェイス」などの脚本で実績のあるオリバー・ストーン。彼は21歳の時、ベトナムの戦場で初めてドアーズを聞いた。ストーンは、残されたメンバーらに脚本のアイデアを伝えたが、ジムのワイルドな一面を強調したプロットはメンバーの反感を買ってしまった。採用は保留。ストーンはその間、監督としてベトナム戦争を題材にした「プラトーン」を撮り、世界中で大ヒットさせた。1989年、映画化の権利はコロンビアから「ランボー」をヒットさせたカロルコ・ピクチャーズに移る。プロデューサーの意向で、改めてストーンが正式に監督/脚本としてオファーされた。彼は「プラトーン」のあと、「7月4日に生まれて」で再びベトナムを取り上げ、60年代をスクリーンに甦らせていた。ストーンとプロデューサーは、ドアーズの3人、ジムの遺族、そして74年に亡くなったジムの伴侶、パメラ・カーソンの遺族と本格的な映画化交渉に入った。ジムの遺族は承諾。カーソンの遺族は、パメラがジムの死亡を最初に確認している第一発見者であることから慎重に対応。「ジムの死に関与しているような表現はNG」を条件に承諾した。ロビーとジョンはテクニカル・アドバイザーとして参加が決定。「伝道師」レイは立場を決めかねていた。問題はストーンが書いた脚本だ。

〇ジンボーとトニー・モンタナ。

 バンドの絶頂期。ジムは、売れれば売れるほど精神的に不安定になり、音楽業界やファンへの失望を深めていった。その失望を埋めるように、浴びるほど酒を飲んだ。やがて、自分を抑圧するものへの過剰な攻撃性や、強い自己破壊願望を露わにし、それは日に日にひどくなっていった。創造力にあふれ、繊細で理知的なジムが、酒を飲むと同情の余地のないクズ野郎になる。メンバー、スタッフは、酒で荒れたジムを「ジンボー」と陰で呼び、次第にスタジオやコンサート会場で「今日はジムかジンボーか」とよそよそしく扱うようになった。ストーンの脚本に描かれていたのは、まさにそのジンボーだった。
 ストーンが脚本を書いた「スカーフェイス」の主人公、トニー・モンタナ。彼は自らの信念に従って成り上がり、権力を手にして自らを過信した結果破滅する。またストーンが「ドアーズ」のあとに製作した「ニクソン」では、貧しい家の出であるニクソンが、時代の要請で大統領となり、国益に忠実になるあまり許されないはずの違法行為に手を染める。斯様にストーンは過剰な生き様を好んで描く鬼畜であった。そもそも皆が思い描くロックスターの生き様は、どこか過剰なもの。ストーンが見出したジム・モリソンの「真実」はトニー・モンタナとよく似た過剰で自己破壊的な姿だった。それはある意味では正解なのかもしれなかったが、身近にいたレイ・マンザレクからすれば歴史の曲解に他ならなかった。
 レイはことあるごとに、4人があつまってこそドアーズなんだとストーンに熱弁を奮った。しかし、熱くなったレイは一方的にまくしたてるばかり。ストーンは頑なに脚本を守る姿勢を強めていく結果となってしまった。もはや歩み寄りは不可能だった。結局、レイは映画そのものから手を引き、全ての協力を拒絶することを選んだ。レイ役を演じたカイル・マクラクランは「オリバーとレイのいざこざは耳に入っていた。レイはつらかっただろうね。ドアーズ神話の番人を長年務めていたのは彼だから。」と振り返っている。撮影が始まるとストーンも腹が決まったのか、それとも元々そういう性なのか、セットを訪れたロビーとジョンが助言しても、聞き流すだけでそれを取り入れることはなかった。

〇完成した映画、頑固な伝道師。
 さまざまな問題を抱えたまま完成した映画は、1991年の春に公開された。スクリーンに映るジム・モリソンは感情をコントロールできない怪物のような男に見えた。衝動的で一貫性がなく、ドアーズを知らない者にとっても、長年のファンにとっても、一体ジム・モリソンとはどんな人物なのか判断に困る仕上がりとなってしまった。だが、内容の是非はともかく、誰からも絶賛されたのが主演のヴァル・キルマーだ。スクリーンの彼はジムの生まれかわりのようだった。撮影に備えて半年間のボイストレーニングを受け、ドアーズの曲を50曲マスター。劇中のライヴシーンでは15曲を口パクなしで演じきった。ドアーズのプロデューサー、ポール・ロスチャイルドも彼をバックアップした。ロビーとジョンも、「ヴァルは良かった」と評価している。
 レイは公開間もなくして「あの映画のジムは、人格の破綻した酔っ払いだ」「観なくていい」とネガティブキャンペーンを張り、映画を全否定した。だが、映画製作から20年経ったいま振り返れば、この映画をきっかけにドアーズに興味を持ち、ファンになった若者が多かったことは彼も認めざるを得ないだろう。そして、今ではこの映画をめぐるいざこざも「ドアーズ神話」の一部となっているのである。
 
 時は流れ、2009年にドキュメンタリー映画「ドアーズ/まぼろしの世界」が完成。新規撮影は一切なく、すべて当時の記録映像と音源だけでバンドの軌跡を追う意欲作だ。幻となったジムの映画「HWY」の映像を使用したのも話題となった。ナレーションはジョニー・デップ。フィクションを軽く凌駕した生々しさは衝撃的だ。さすがのレイもご満悦で、こうコメント。「これこそ真実のドアーズ。この映画は反オリバー・ストーンだ。」

 伝道師として精力的にドアーズ布教に努めたレイ・マンザレクも今はもう亡い。さすがにもう草葉の陰でストーンを許してくれているだろうか。いや、許してはいないな。

 一方のストーンはこのあと起死回生の大傑作「JFK」、続けざまに「ニクソン」を発表し、すぐに持ち直す。そこで露わになったのはストーンが常に「失われたアメリカ」にこだわり続けているということだった。近年はアメリカ近現代史の研究にも携わり大著を刊行したりしているが、ときに陰謀論的な主張も繰り出すため見ていてヒヤヒヤさせられる。それはまた別の話。

今回はこれにて〆。


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