子どもの授業参観に行って「自分らしさ」を見つめた話。
子どもたちの授業参観なんて、
自分が行くものではない。
会社員をしていて
毎日を慌ただしく過ごしていた頃は、
そう考えていた。
でも、無職になった今は
自由に授業参観に行くことができる。
そして、何より子どもたちが喜んでくれる。
あと何年喜んでくれるのかはわからないが、
この喜んでくれる時期に、
こういった幸せがあることに気づけてよかったと思う。
だって、定年まで気づけなくて、
気づけば、あとの祭りということに
なっていたかもしれないのだから。
無職の良さは「自由」。
これはまぎれもない事実だ。
小学5年生の息子の授業は、
道徳の時間だった。
親の私にとっても興味深い授業であった。
そんな授業だった。
なかなか興味深く参観をさせていただいた。
授業も終わり、
帰宅をし、
就寝する際に
ふと、自分の中で引っ掛かるのもに気がついた。
「みんなに優しい」
という、「あなたの良さ」の例えについてだ。
先生が、例として挙げていた項目のひとつだった。
一見、とても良いことに思えるのだが、
この呪縛に長年苦しめられた本人としては、
ここを深く探らなければと思ってしまったのだ。
昼間参観した授業の続きが、
眠気が吹っ飛んだ暗闇の中で
勝手にグルグルと脳内で進行されたのでした。
若かりし頃の自分は、何の疑いもなく
良いことだと思いそうしてきたのだ。
そして、中年になって苦しんでいるのだ。
こうやって、「自分らしさ」を失い
私たちは大人になっていくのかもしれない。
そうして、
いつの間にか、
「自分らしさ」を思い出すことも
できなくなったのかもしれない。
そう、私たちは
アイデンティティーを失ってから、
はじめて「自分らしさ」を
思い出すことができるのかもしれない。
優しい私。
課長である私。
部下に慕われている私。
会社員である私。
働いている私。
妻よりも稼ぐ私。
立派な父親である私。
忙しい日々を過ごす私。
未来に希望を持つ私。
甲斐性のある私。
等々、
アイデンティティーが崩壊したあとに、
残っているものの中に
「自分らしさ」は、あるんじゃないか。
アイデンティティーと思えるような、
自分が誇りにしているものを失ってから
「自分らしさ」っていうものが見つかるのだ。
アイデンティティークライシスを経験して
はじめて自分らしく生きていくことが
できるのだと思う。
そう結論に到着し、無事脳内授業も終了し、
無事就寝することができた。
それでも、自分を許そう。
それでも、自分を愛そう。
それが、自分らしさだから。
なんしかカッコいい大人になろう。
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