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個体。

 キリマンジャロは独立峰として世界で一番高い雪山だ。その西側の頂はマサイ語で神の家と呼ばれている。この西側の頂上付近に干からびて凍り付いた一頭の豹の死体が横たわっている。そんなところまで豹が何を求めてやってきたのか誰も説明したものはいない。

 豹とは気高い生き物である。群れはなさない。時には自分より大きな獲物をも狩り、寒帯から熱帯林までとその分布は広い。まさに孤高の王者だ。

 「今日からは山月記というお話を読んでいきます。こことワークの文法のページがテスト範囲です。」

やけに通るが眠気を誘う先生の声を合図に五限の古典が始まった。私は今日も机に向かう。なんとも進学校らしい光景だ。この調子で受験を迎えるのだろうか、しがない一般家庭の生まれでも大学に行ける時代だし。そんなことを考えながら窓の外をみた。

 小中高と当たり前のことを当たり前にこなし、当たり前の目標を立て勝ち取ってきた。その繰り返し。この間たった18年だ。周りからみれば普通過ぎるが自分ではその都度必死にやってきた。
 こういう大きく環境が変わるタイミングで考えることがある。自分とは何か。何をみて何を感じ、何をどうしたいと考えているのか。明確な核が存在して自分を成しているのか、集合体として自分という個体ができあがっているのか。その答えが明確になったことはない。時代の先駆者達が築き上げた判断基準に乗っ取り自分を解釈し進む方向を決めてきた。フォーマットというやつだ。生物は生物ごとにフォーマットがある。いや、生物それ自体がフォーマットだ。フォーマットごとに特徴があり、その中で個体ごとに特徴を持つ。学校という大きなフォーマットの中にも教師、生徒というフォーマットがある。

 「先生も悩んだことがあったよ。」

 李朝には悪いが話を聞き流していたら五限は淡々と終わった。その後の授業もその調子だった。朝から授業があったとは思えないほど一瞬だったが確実な疲れとともに放課後が訪れた。
 進路指導を受ける時に考えることがある。自分より生きた時間の長い人間と関わると人間は過去の複合体であるように感じるということだ。この教師という生物も先駆者たちが築き上げた判断材料を提示し生徒を支える。そこに人生の先駆者として自らの考えも判断材料として提供する。これまでにあったこと全てがその個体を個体たらしめるのだ。

 キリマンジャロは独立峰として世界で一番高い雪山だ。その西側の頂はマサイ語で神の家と呼ばれている。この西側の頂上付近に干からびて凍り付いた一頭の豹の死体が横たわっている。そんなところまで豹が何を求めてやってきたのか誰も説明したものはいない。

 この豹は餌を求めて山を登ったのか、道に迷って山を登ったのか、誰にもわからない。引き返せないことがわかっていたのか、わかっていなかったのか、それすら誰にもわからないが確かなことがある。その豹が頂付近で横たわっているということだ。死して残ったのは目的ではなく過去の積み重ねによる結果だ。

 「じゃあ気を付けてね」

 進路指導も終わり学校を後にした。歩きながら考える。身に着けた衣服も、踏みしめている道路も、行き交う車も、毎日利用する電車も、はたまた自分自身も、過去の複合体だと。

 「ただいま」

 静まり返った家では小さな自分の声さえ大きく聞こえる。階段を踏みしめ自室へと向かった。荷物を置き、机に今日の課題を広げた。課題に手を付けずなんとなく、今朝の体温さえ感じられない冷え切ったベッドに横たわった。間もなく今日という日の複雑な疲れと確かな安堵感のなか意識は途絶えた。

 キリマンジャロは独立峰として世界で一番高い雪山だ。その西側の頂はマサイ語で神の家と呼ばれている。この西側の頂上付近に干からびて凍り付いた一頭の豹の死体が横たわっている。そんなところまで豹が何を求めてやってきたのか誰も説明したものはいない。


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