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信頼は決意ひとつ

誰かを信じることがとても怖く感じられる時期があった。
自分の弱みをさらけ出す行為のようで……

裏切られたらとてつもなく傷ついてしまう、そうなったらどうしよう、なんて考えて。

映画や小説で「じゃあ浮気していない証拠を見せて」とか「私を愛してるって証明して」とかいうセリフやシーンを見かけると強く心に残ってあれこれ考えてしまう。


自分以外の他者を信頼したいと思う時、僕たちは相手に証拠の提示を求めがちだ。

「私」の信頼を託すに足る誠実さを。態度を。気遣いを。感情表現を。

しかし疑念がひとつでも心にあると、何をどれだけしてもらっても嘘くさく見えて果てしなくなってしまう。


考えているうちに気づいた。信頼という人間関係の中に他者なんていないのだと。

誰を信頼するか・しないかを決めるのは、結局自分自身でしかない。

自分が他者の何か (ふるまい・言葉エトセトラ) を見る。そして心の動きの中で「この人を信頼しよう」と決めている。
「この人は信頼できる」と決める基準が人それぞれなだけで、心の動きというところまでプロセスを分解して考えたら、やっていることは皆一緒なのではないだろうか。

相手が何をしているかではなく、自分が「この人を信頼しよう」と決めたかどうか。

この観点で見ると、愛の証明を求める人は確たる証拠を求めているようでいて、実は決意しきれていないのではないかと思える。
もしかしたら自分に自信が持てなくて、自分がしようとしている決意に支えが欲しいのかもしれない。


僕は誰かを信じることを、気づいたら怖がらなくなっていた。
相手が何をしてきたか、何をするかもしれないかを監視するように見るのをやめて、「この人を信頼することにする」という自分の決意を見つめるようにしたら、裏切りへの不安水準はとても減った。

もし相手が僕の決意を揺るがすようなことをした時は、その時に改めて「この人を信じ続けるか、やめるか」を決めればいい。

僕は誰かを信頼すると決めて「あなたを信頼していますよ」と言動で示しながら生きている。


きっと誰もが無意識に同じことをしている。



文責:直也

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