見出し画像

ペットの死が人間のそれより軽いはずがあるだろうか

※この記事にはペットロスに浸る方にとってショッキングな失言が含まれています。
二次受傷にご注意ください。大事なパートナーを侮辱されて怒らないわけがない。







愛犬モカが亡くなったことを伝えると、電話口で父方の親戚は言った。

「でもお父さんは元気なんやろ? 身代わりになったと思って……」

思わず「え!?」と声が出た。親戚は慌てたように話題を変えた。


ペットも家族の一員だという見方が広がって久しい。

お店に行けばかわいい/かっこいい/季節感のある服が並んでいたり、健康やアレルギーに配慮したごはんが豊富な選択肢の中から選べたり、丁寧にお葬式してくれる霊園がいくつもあったり。お世話になりました。

それなのに、それでも、ペットの死なんて「誰かの身代わり程度のもの」で、人間が死ぬことの重大さに比べたら大したことなくて、軽く流して終わりにできるようなものとみなす人も存在している、のか。

あまりにびっくりしてしまって、頭がついていかなくて、いつも通りに電話を続けてしまったことが悔やまれる。人間、突然の出来事に遭遇すると日常と同じ流れを続けようとしてしまうところがある。

今は思う。会話の途中だろうが、久しぶりの連絡だろうがなんだろうが。僕は電話を切ってしまえば良かった。


もちろん、多様性のことは分かっている。日本は言論の自由と思想の自由が認められていて、何を思うかは人それぞれの自由だ。

その上で。僕の身近にペットを、僕の大事なパートナーを、そういう風に軽くしか見ない人がいること、間違ってもそれを僕に向かって言ってしまえること。
その人間性というか精神性が、たまらなく寂しかったのだと思う。

その親戚は、犬を看取った経験こそないらしいが、犬を飼っていたことはあるという。
それにもう大人なので、彼らだって何度か、あるいは何度も、人間の死に関わってきた経験を持っているはずだ。つまり、お悔やみの言葉のレパートリーを持ち合わせていたんじゃないかということ。

その中から出てきたのが冒頭の一言だったこと、そして「身代わりに」なんて人間に対してなら言わなかったのではないかと考えてしまえることが、悲しい。腹立たしさすら暗く湧いてくる。

彼らはモカに会ったことがないわけじゃない。可愛がってくれていたではないか。


「家族」の条件とは、「大切な存在」の条件とは何だろうかと思う。
ときに人は血のつながりに関わらず、誰かに強い親しさを抱くことができる生き物だ。

「出産の痛みを経験しないと母親になれない」などとまことしやかに言われるが、じゃあ父親はいつ父親になるのだろう? 養子を我が子と同じく大事にする人はいつ養子を産んだのだろう? ペットを大事にする人のことはどう説明するのだろう? 血縁と出産によらない密な関係性の説明がつけられないという点で、僕はこの言説を嘘だと思っている。

血縁は、痛みは、「家族」を定義しない。

家族というのは一緒に過ごした時間だったり、ふと心が通い合ったと感じた瞬間だったり、自分ではない他者が近くにいても安心して眠れる程度の信頼感だったり。情緒的な結びつきに定義されている概念だと思う。

一緒に過ごした時間が13年分あって、気持ちが通じ合った瞬間がいくつもあって、僕の近くですやすや眠ってくれたモカは、間違いなく僕の家族だ。

僕が大事な人間を亡くしたとしたら、モカのそれと同じくらい悲しむだろう。種族によってではなく、生命の存在として、魂が去ったことを嘆くだろう。体の形は関係ない。


親戚に連絡したのがモカの葬儀の直後だったこともあり、モカのことを思い起こすとこれらのことがうっすら頭の隅に現れて嫌になる。


モカが何かの、誰かの身代わりに生きて死んだことなんて、一瞬たりともなかった。モカの犬生はモカのものだった。

彼の犬生が、他者の勝手なレッテルによって誰かの身代わりに振り分けられるなんて、人間より甲斐であるように見なされるなんて、傲慢だ。僕は承服しない。

誰かの、ありとあらゆる大事なペットたちについて、承服しない。


僕らは家族を喪ったのだ。





読んでくださりありがとうございます。良い記事だな、役に立ったなと思ったら、ぜひサポートしていただけると喜びます。 いただいたサポートは書き続けていくための軍資金等として大切に使わせていただきます。