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Jessieの文章は果たして読みづらいのだろうか?について

どうも。直也です。

Jessie -ジェシー- が楽しく下書きをしている横で、僕と「監理者」が口を挟んでしまった場面があり、彼女に申し訳ないと思った。

「読みづらい書き方だ」と思ったのだ。

けれど冷静になって考えてみると……本当にそうなのだろうか。


自分の文章を自分で評価するとは、非常に難しいことだと思う。

基準と理想が入り乱れ、厳しすぎたり、甘すぎたりする事態が発生しやすいのではないか。

また僕と「監理者」が彼女の文章を「読みづらい」と感じた理由を探ると、なにも彼女が支離滅裂な書き方をしているわけではなく、単に僕たちとは書く時の思考プロセスの順序が違っているだけのことだった。


僕たちは思考の中である程度記事全体の構成が出来ていて、それを紙という目に見える場所に出現させていくイメージ。

書くそばから言いたい事、そのために使う言葉は決まっていて、ただ脳内の下書きを物理的な下書きに変換しているだけという感じだ。

そしてその構成は、僕たちの感覚で練り上げられてきた「読みやすい文章」の流れに沿って作られている。


一方のジェシーは、構成のイメージこそ持っているが僕たちより漠然としていて、最初の主題や構成が書きながらどんどん変化していく。

途中で書きたいエピソードが追加されたり、話がどんどん逸れて行ったり。
遠くへ行き過ぎて戻って来られなくなったりも。

取っ散らかっているけれど、思い付きのまま書いている彼女は、実に楽しそうだ。


だからこそ、「読みづらい」と断じてしまった僕たちは非常に反省した。

冷静に見つめて、ただ単にやり方が違うだけだったのだと知った。


もしかしてJessieの文章は、他者からしても本当に読みづらいのかもしれない。
あるいは、僕たちの文章の方こそが。

だが、それを確かめるすべがどこにあるというのだろう?

人によって「読みやすい」「入ってくる」と感じる文章は違う。
書き方そのもの、作者とのエネルギーの近さ。様々な条件がそろった時に、人は文章を読みやすいと感じる。

例えば世界中にファンの多い村上春樹作品が、僕たちはちょっと苦手なように。(ファンの方すみません、批判する意図はありません)


一瞬、Jessieの文章も公開前にきちんと検分して、僕や「監理者」の書く文章のように筋道立てた方が良いのかと考えた。
すぐにやめた。

自由に書くこと。それがJessieの良さだからだ。彼女には自由が必要だ。
それを僕たちが奪ってしまうのは本末転倒というもの。

もしかしたら誰かが、「読みづらい」と言うかもしれない。
一方で他の誰かが「あなたの文章が好き」と言うかもしれないのだから。



画像はPixabayからお借りしています。

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