「親に似ている」ってそんなに喜ぶことだろうか?
僕には甚だ疑問だ。
昔は、「お父さん(またはお母さん)に似てるね」と言われたら、喜ぶ「ものだ」と思いこんで反応していた。
喜ぶべきことなのだと捉えて、自動的にそのように反応した。
これは子どもが触れる情報源に影響されてのことだと思う。
大人は、子どもが「親に似ている」ことを良いことととらえて、子どもを見ると「お父さん(またはお母さん)に似てるね」と声をかける。
アニメの中では子どもたちが親の威光にとらわれている。良くも悪くも。
ハリー・ポッターはことあるごとに「お父さんもシーカーだった」「リリーの目」と言われて、死別した親との繋がりを発見していく。
ハリーの目が母親に似ていることは重要でもある。
一方で。
養子縁組等を経て一緒に暮らす、血のつながりのない家族は、親と子の顔が似ていなければ親子ではないのだろうか?
虐待を受けた・毒親に育てられたなどの理由でトラウマを持つ人たちは、「親に似ている」という言葉によって辛い思いをしはしないだろうか?
「お父さん(またはお母さん)に似てるね」という言葉は、本当に褒め言葉なのだろうか?
ウェンズデー・アダムス (ネットフリックスの「ウェンズデー」は最高だ、ぜひ観てほしい) は母親モーティシアとゆかりを持つことを嫌悪する。
母親の母校に編入されたウェンズデーの周囲は、母親の威光と共通点に満ちている。
そんなウェンズデーにとって、「母親と同じ」は最高に効く地雷だろう。
あるいは血のつながりがあるのに、「親に全然顔が似てない」ことは、その子が家族の一員ではないことの証左になってしまうだろうか?(絶対ならないし、なってはいけないと思う)
そもそも人はなぜ「親に似ている」が褒め言葉だと思うようになったのか。
幼少期からの刷り込みだ。まさに僕が受けてきたように。
過去のどこかの時点で「親に似ている」ことは名誉で誇り高いことだとされた。
大人たちは「親に似ている」という言葉を褒め言葉として浴びせかけられながら育った。
世の中にあふれるアニメ・映画・書籍は、そのような褒め言葉を受けて育ってきたかつての子どもたちが作っている。
だから今の子どもたちもそれを見る。そのような言葉をかけられて育つ。
だからそれが褒め言葉であると、無批判に思ってしまう。思わなければならないような気にさせられてしまう。
人々は「親に似ていることは喜ばしい」という呪いにかかっている。
相手を褒めたつもりが、逆に相手を傷つけてしまう表現だったということはままある。
誰でも喜ぶ完璧な褒め言葉なんて、この世に存在しない。
もしこれまでそれが存在するように見えていたのだとしたら、それは世界が僕たちに「みんなと同じであること」を求め過ぎてきたからだ。その中にうまく馴染めない人たちが、息を潜めて耐えてきたからだ。
子どもは親に似ているから、素敵なのではない。
相手の姿が、在り方が、素敵だと思ったのなら、親とも有名人とも他の誰とも紐づけず、ただ「あなたって素敵ですね」と言えば良いではないか?
そう言ってくれる人が増えればいいのにと思う。
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