「自分の話ばっかするオバサン」になりたくない
こんにちは。亜麻|《 ああさ》です。
誰かから何気ない、あるいは重要な相談ごとをされた時に、どうしてもやってしまうことがあります。
自分のことをしゃべってしまう、ということ。
「分かる。実は私も昔こういう経験をしていて……」という具合に。
私たちは、自分が悩み事を打ち明けている時にこれをされるのがすごく嫌い。でも、他人に対してはやってしまう。
それは、こんな理由から。
「何もない適当な奴」と思われたくない。
私たちのこれまでの経験に由来している気がする。
高校を卒業してから、主にスピリチュアル関連でいろんな集まりやイベントに参加することが増えた。
そこでは大抵、私が最年少。できる友達は40代以上ばかり。
話が合うので楽しいんだけど、99%の確率で必ず言われることがあった。
「まだ若いのに、すごいね」
友人の1人に聞いたのだけど、これはどうやら、若い人一般を見下して出る言葉ではなく、自分の若い頃と私の在り方を桑部手出る発言らしい。
それはそれとして、でも多くの人の中には「若い頃の自分は今より無知で空っぽだった」という認識があるみたいだ。まあそれは分かる。
でも、私は空っぽじゃない。
若いなりに「これまでの経験」と「経験を通して考えたこと」を持っている。
まるでそれが一切ないみたいに扱われることがあるのが悔しい。
以前、まさに私をそんな風に扱う人がいた。
よくご飯に誘ってもらってはいたけれど、席で話をするのは99%その人。私はただの相槌役みたいなものだった。
説教めいた話に頷きながら、考えていた。
若いから、こういう扱いを受けるんだろうか。
我慢しないといけないんだろうか。
小さい頃の経験と相まって、私はこれを我慢し受け容れ、ひたすらやりすごすことに時間を割いていた。それしか知らなかった。
その結果、身についてしまった。
私は無知で空っぽだと見なされる。目の前の人もまたそう思っているんじゃないか。
相談に添って生じた「分かるよ」という相槌も、空虚で形ばかりのものと思われているんじゃないか。本当に共感しているのに。
だから伝えなきゃ。
私がどうして「分かる」のか、経験した出来事も含めて説明しなきゃ。「分かる」の根拠を証明しなきゃ……。
上の思考回路の結果、「分かる。実は私もね……」という自己嫌悪を起こすような相槌が生じていたことに気づいた。
でも、最近気づいた。
20代に入った私は、もう若くない。
30代は目の前だし、自分の身分証明書があれば大人の人がいなくてもなんでもできる。(いらないものを売ったり、役所の申請を出したりいろいろ)
私が抵抗し、反発心を抱きさえした「大人」という世界の一部に、私もなってしまっているのだ。
「若い」感覚をこのまま持ち続けていたら、今度は私がウザがられ嫌われる人になってしまう。
誤解され、取り残されていくのは嫌だ。
私はもう「いろんな経験を持った、ひとりの大人」と見なされる年齢になってきているんだ。
私より若い人たちを、無知で空虚だと決めつけない目で見よう。
共感の言葉「分かるよ」ただその一言から、豊かな経験を香らせることができる大人になろう。
詳しい経験談なんていらない。全部話さなくても、感じとってくれる人は感じ取ってくれるから。
そう在りたいと思った。
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