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僕たちは恋愛観を教育されている

昔の僕。

男女がいて、内面をさらけだすような会話をしていたら、すぐに「このふたりくっつかないかな」と考えながら漫画を読み進めていた。

それが犬猿バディものだろうが関係なかった。ルパンととっつぁんの絶妙な距離感が理解できるまでに10数年かかった。相手を逮捕したいほど嫌いなのに、それが殺意に転ばないのはなぜなのだろうと。

愛憎はひとつの本質の両極ではないかと思える時がある。同じところに、反対の道を通って辿り着く。両者とも、道中に覚えるすべての感情や心の機微に名前をつけることはできない。拾い上げられるのはいつだってその中の一部だ。


物心ついたころからなぜか僕たちは恋愛脳で、クラスの誰かが優しくしてくれると「もしかして僕のことが好きかもしれない」なんて考えていた。

なんでも恋愛に取って一喜一憂したり、他者をくっつけたがったりする人がいるけれど、果たしてそれはその人の純粋な個性と言えるのだろうか。

個性と教育が混ざり合ってできたもののような気がしている。
僕は少女漫画に教育されて育ったのではないかな。

少女漫画には(たいてい)分かりやすく主人公がいて、主人公と異性の間に何かが起こる。

出てくる同性の友達はライバルで、気を許しすぎて得をすることは滅多にない。
そういう物語に触れながらきた僕は、現実の人間関係にも物語を映して世界を理解しようと試みる。


だが昨今の人権意識の発展と共に、触れる情報の質が変わって「あれは正しい理解の仕方だったろうか?」と気づきはじめる。

「女性は陰湿で互いにライバル関係にある」というのは、シスターフッドを発生させないための、「女性を守ってくれるのは男性だけ」と思いこませるための価値観ではないか?
陰湿な男性も実際に存在する。陰湿さは女性の特性ではなく人間全体の持ち物だ。

ブラザーフッドもシスターフッドも同性愛も存在する。異性の友情だって存在する。絶対に恋愛に発展しない関係性が。


移り行く価値観の中で己の変遷を振り返る時、僕は今持っている価値観を「言われてみればそうだな」と感じる。今の僕の「当たり前」は、「友情は必ずしも恋愛に発展するわけではない」だ。
過去の、すぐ恋愛に結びつける考えを振り返るとちょっと変な感じがする。当時は恋愛直通が当たり前だと思っていたけれど、それは僕の短い手が届く範囲に恋愛直通の物語しかなかったせいでしかないのではないか。

教育は黒板と机の間だけで行われるものではなく、目に入るもの耳に聞こえるものすべてによって行われる。現代人は社会が、政府が発信するメッセージを受けとりながら一生を過ごす。

メッセージがすべて正しい、人間を尊重するものであるとは限らないのだと思う。

僕は何を受けとってきたのか。今何を受けとっているのか。
僕はどういう受け取り方をしたいのか。

考えることを忘れたくない。



参考文献:



直也

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