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「行儀の悪い人」でいい。

社会の一員として、最低限のマナーは守れる人間でありたい。

マナーの良し悪しが僕の印象を決め、重要な場面で不利に働く可能性が大いにある。マナーで損をしたくない。
だからある程度のマナーには明るく、使いこなせる人でありたい。
そう思っている。

だがひとつだけ、「もう守らない」と決めているマナーがある。

テーブルの上に空いている手を出しておくことだ。


テーブルマナーの中に「空いている方の手をテーブルの上に出しておく」というものがあるらしい。

古来はテーブルの下に手を隠している場合、武器を持っているのではと見なされたことから来ているようだ。食事中にも気を抜けないとは、物騒な時代である。

僕は数ヶ月前から、僕を捕らえていたこのマナーを守ろうとすることをやめた。


小さい頃から、右手を足の上に置いたまま食事する癖があった。(僕たちは左利きだ)

自力で食事できるくらいの年齢になってもこれは癖になったままで、親から何度も何度も注意を受けた。

「右手」と。

気を抜いている時に限って出る癖と、気を抜いている時にかけられる鋭い一言。

それでいてちゃんとできている時は褒めも見てもらえもせず、気を抜いて右手が落ちた時だけ注意を受けた。

僕たちの好ましくない素行は監視されている。気を抜いてはいけない。
これはできて当たり前のことで、褒められるものではない。
でもできていない僕たちは駄目なのだ。

そんな印象を植えつけられるのに充分だった。


その他にも食事時には様々なことが起こり、僕はすっかり夕食恐怖症である。

もう親とは距離を取り、一緒に食卓を囲む機会を全力で避けているのに、ある時、僕は気づいてしまった。

自分で自分に「右手」と内心声をかけ、あの時叱られた気分のまま自分の姿勢を直していることに。

それは傍から見れば、マナーが身についている「ちゃんとした」振る舞いなのかもしれない。
だが内面を見れば、食事の時にあるはずの安心と楽しさを犠牲にした上に成り立っている。
僕は不快だった。

まるで父親が僕の中に住んでいて、ずっと僕を監視し続けているようじゃないか。
そして僕は、未だ監視を受け続けることを許しているようではないか。

物理的に距離を置くことはできた。だが精神的は距離はメートルでは測れない。
まだ距離を取り切れていない気がする。


それで、僕は右手をテーブルの上に出しておくことをやめてみた。

最初の頃は、いや未だに、気づいた時に「右手」と注意する父親の声が蘇る。
どこからか監視され、あれもこれもと注意の声が飛んでくる気がする。胃が縮こまる。

だが僕は、もう注意を受けて黙って従うことはやめたのだ。

過去から浮かび上がる声に気づいた時、僕は心の中で決然と言う。
「いや、出さない」
しまわれたままの右手を意識し、箸を持つ左手を見て、そして美味しくごはんを食べる。

武器も何も持ってはいないけれど、テーブルの下に隠された右手はなぜか僕を安心させるのだ。
親の目に触れない、自由に宙を遊ぶ右手。
僕が使いたい時だけ現れる。


右手を隠し食事を摂る僕は、行儀の悪い人かもしれない。
人を不安にし、マナーがなっていないと思われるかもしれない。
僕は人から白い目で見られることが嫌いだ。

でも、右手をしまったままでいいと思っている。

代わりに手に入れた、飛んでくる注意に身を固くしなくていい食事時間はとても楽しい。安心して料理の美味しさを感じられる。

そして、他のマナーはきちんと守るように気をつけている。
人や本の数だけ提唱されるマナーはあるので、大筋で、基本的なところを守るように。

完璧ではないけれど、「右手を出さない以外は、きちんとした人」で在れるように。
それが僕にとっての「ちょうどいい行儀」なのだ。


人から白い目で見られること、見られるかもしれないことをするのは嫌いだが、それ以上に不安と恐怖に身をすくませていることをもうやめたい。

だから「行儀が悪いと思われるかも」ということよりも、「楽しく食べるためにはどうすればいいか」を考えた。

僕は出さない右手より、安心しておいしく食べられるごはんが欲しかった。
今、僕たちは自分で自分にそれを与える。



直也

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