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声が高くても低くても。

欧米圏では、高い声で話すのは「子どもっぽい」と見なされることらしい。

逆に日本では、ハスキーな声の若い女性は「女の子っぽくない」などといわれることがある。

日本の文化圏における「女性は高い声である」というイメージは、男女の声帯の差異を飛び越えて、女性を下位存在と見なす男尊女卑やロリコン文化の一環という視座で語られることも多い。

僕はあいだの声をしている。

女性にしては低めだけれど、男性になりきれるほど低くもない。

解離人格の中には自分の声が解釈違いで、話しをするたびに違和感を覚えたり、いつもじぶんの声に嫌悪感を抱いて高めの声を出そうとしている子もいる。


僕は男尊女卑と、女性を幼い、支配の対象と見るような日本の性愛文化が嫌いだ。
舐められるのが嫌いだ。
だから英語を練習する時は低めの声を出そうと気をつけてきたりもした。


急に気づいたのだが、それでは何も解決などしていない。

日本文化と欧米圏の声に対する印象は対極をなしてはいるが、本質的に同じ問題を含んでいる。

声で人を判断できると思い込んでいるのだ。


地声が僕の理想の高さをしている、気の合う友人がいる。彼女は素敵で、僕は彼女のことがとても好きだ。

芯のある価値観を持つ彼女が、もしその声質ゆえに海外で舐めた態度をとられるかもしれない、話を子どもっぽい印象で受け取られるかもしれないと考えた時、僕はその想像だけでひどく苛立った。
声だけで僕の友達を分かった気になるんじゃない、と。

そして同じことが自分自身にも言えると思った。

声が低めでも、かわいく見られることは可能だと思う。自分がそう望む時は。
というかそうじゃないとおかしい。

人間は第一印象の8〜9割を見た目で、しかも一瞬にも等しい短時間で決めるというが、その後印象が改まることは往々にしてあるし、第一に最初の印象によって「舐めてかかっても良い相手かもしれない」と侮った立場から関係をスタートさせようとするのがまずおかしい。

人間は相手を尊重することに慣れていない。
むしろ相手と自分の間に優劣をつけ、自分の方が優位に立っているところを見つけようとすることのほうにこそ慣れている。非常に戦闘民族らしい。

だがここまで文明を発達させ、人と関わることを選択したのだったら、相手と自分は対等であるという新しい意識に慣れていくべきだ。

その新しい潮流として「人権」が取り沙汰されているのだろうし、男尊女卑のおかしさが叫ばれているのだろうし、女性解放の潮流は今に始まったことではなく、人類は意識変革の機会を何度も逃してここまできているのだと思う。

声が低く、落ち着いて聞こえるからといって実のある話をしているとは限らない。逆もまた然りなのだ。

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