バリアフリー時代の作劇の注意点とは

『無垢なる証人』という韓国映画を観ました。簡潔に纏めれば、自閉症スペクトラムの少女との交流を通じて人生を見つめ直すヒューマンドラマです。

この手の作品に出会うと、私は『ダンス・ウィズ・ウルブス』が頭によぎります。『愛は霧のかなたに』『ラストサムライ』『アバター』などと比べると類似性がわかりづらくなっていますが、骨格は同じだと思うんですね。

主人公=観客(メインターゲット)と同じ立場の人間
『ダンス~』・・・白人
『愛は~』・・・人間
『無垢~』・・・健常者

全く異なる境遇の存在(異種)との出会い
『ダンス~』・・・先住民
『愛は~』・・・ゴリラ
『無垢~』・・・障害者

主人公、異種と出会い反省
主人公と同じ立場の観客も価値観を揺さぶられる
同時に主人公と同化していく

主人公、異種を守るための行動=クライマックス
観客、主人公の謀叛を支持

『ダンス・ウィズ・ウルブス』タイプの物語は、このような骨格を持ちます。勿論この型は効果的であり、創作志望者は頭に入れておくと便利です。特に今回の『無垢なる証人』では、戦争を法廷に置き換えており、安直な模倣とならぬよう工夫されています。この点でも、創作術を学ぶ上でとても参考になる作品と言えるでしょう。

ただし、この型には注意すべき落とし穴があります。主人公とともに観客(メインターゲット)にもハッとしてもらいたい訳ですから、異種の美しさと主人公の穢れの対照性を極端にしすぎてしまうんですね。つまり、油断すると、異種を過剰に美化しがちなんです。

しかし、先住民だって障害者だって、みんなちょっとした邪気ぐらい抱えています。(たぶん、ゴリラも......確信は持てないですが)なので、主人公との対照性を意識するあまり邪気を描かないと、先住民も障害者も人間らしさを失ってしまうんですね。

まあ、わかるんですよ。物語に鮮やかな驚きを加えたいのなら、異種が極端に美しく眩しい存在であった方がいいんですから。それでもこれからの時代は、主人公と対比する異種にも欠点を作り、きちんと人間らしく描くことが必要だと思います。

描きたいテーマやメッセージがあると、登場人物をコマとして扱いがちですが、最低限役名をつける脇役ぐらいまでは、表裏程度の人間性を与えてほしいものです。

では、今日取り上げたパターンの映画を観た時には、作中で異種として扱われている存在に人間らしさがあるかどうか考えてみてください。足りないと思った場合は解決策を考え、配慮が十分と感じた場合はその工夫点をメモしておきましょう。

以上、プロ脚本家になれなかった男が語る創作論でした。今後も不定期に書きこんでいきますが、これだけは忘れないで下さい。プロフィールに書いた通り、私なんかの創作論を鵜呑みにせずに、自分ならどう捉えるかしっかりと考えて下さい。そうやって考える時間が、創作術の向上にきっと役立つと信じています。私の思考を叩き台にして、成長して下さいね!

Be Ambitious!

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